あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ|松岡恵実さん『中国のフェアリー・テール』

2022年に86年の生涯を閉じられた、松岡享子さんは、翻訳者・作者として、また東京子ども図書館でのお仕事を通して長年子どもの本に携わってこられました。なかでも子どもたちにお話を語るということを、とても大事に考えていました。『中国のフェアリー・テール』(ローレンス・ハウスマン 作)は、松岡さん自らが語るために訳し、以来、大切に語ってきたお話です。このたび、1冊の本として刊行するにあたり、松岡さんの遺志を継いで制作に携わった、養女の松岡恵実さんにエッセイを綴っていただきました。

母が愛したティキ・プー

松岡恵実

窓から見える緑の樹々が風に揺れています。もうすぐ夏がやってきます。大きな窓から見える景色は、1日1日、季節とともに動いていきます。わたしはいま、母が遺した山の家の書斎に座っています。母の名前は松岡享子。この『中国のフェアリー・テール』の翻訳者です。

母は86年の生涯の中で、こどもたちに、たくさんの「本」と「おはなし」を届けてきました。自分でもおはなしを書き、違う国で生まれたおはなしの翻訳もしました。こどもたちのために、文庫を開いたり、図書館を作ったり。なかでもおはなしをすることは、母のいちばんのたのしみでした。昔話、おもしろいお話、不思議なおはなし、そしてこわいおはなし! こどもたちにしあわせであってほしい。しあわせな子ども時代をすごしてもらいたい。そう願い続けた母は、ただただ精一杯、一生けんめいに働きました。

『中国のフェアリー・テール』のおはなしは、こんなふうにはじまります。
 
「ティキ・プーは、とるにたりない小僧っ子でした。でも、その魂の奥底には、芸術――それはティキ・プーにとっては絵を描くことでしたが―に対する熱い思いが燃えていました。その思いは、はけ口を求めて、ティキ・プーの小さなからだの中で、たえずもがき苦しんでいました」。
 ティキ・プーという少年の名前を口にする時、母の身体からはいつも、あたたかい、包み込むような優しさが溢れてきました。
 
このおはなしを「本」にしたい。これはかねてから母が願っていたことです。突然に大きな病がみつかり、その余命が長くないと知った母は、編集者の人を枕元に呼び、この仕事に対する自分の思いを伝えました。翻訳はすでにできあがっていました。病気で動けなくなっていく母の枕元で、わたしは母と一緒に、何度このおはなしを読んだことでしょう。
 
物語の最後に、ティキ・プーの師であるウイ・ウォニが、やさしく愛弟子をだきしめて、こう言います。「ティキ・プーよ、さらばじゃ。わたしは今、わたしの分身をこの世に送り出す。疲れて、休息が必要になったら、わたしのところへもどってくるがよい。いつでもおまえの居場所は用意してあるよ」。
 
母が亡くなってから、わたしが担当編集者とこの仕事を続けることになりました。わたしには「本を作る」という経験ははじめてでした。なにもかもを1から教えてもらいました。母はもう、ここにはいないということを繰り返し思いました。編集者はただただ、わたしのことを待っていてくださいました。
 
ある日のこと、装丁をお願いしていた黒木郁朝さんから、満点の星空を描いた装画が届けられました。わたしは夜の庭に出て、空を仰ぎ、輝く星々を見つめました。このおはなしと本。母の願い。そしてわたしの思いがゆっくりと重なりあい、動き始めた気がしました。
 
多くの人に助けていただいて、ようやくここに、1冊の本が生まれました。この本を、ティキ・プーと同じ年頃のすべての子どもたちに、贈ります。わたしがはじめて母に出会ったのも、ちょうどティキ・プーと同じくらいの年のことでした。



まつおかえみ
1960年、絵本の出版社「こぐま社」の創業者、佐藤英和の末娘として生まれる。11歳のとき、松岡享子さんに出会う。不思議な縁に運ばれて、20歳のときに享子さんの家に転がり込み、居候。のちに娘となる。1998年〜2016年東京・中野区江原町にてパン屋をしていた。現在は八ケ岳近くの山の家に暮らす。

2024.09.10

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