作者のことば

【対談】谷川俊太郎×粟津潔『まるのおうさま』をめぐって

谷川俊太郎さんの絵本をテーマにした展覧会「谷川俊太郎 絵本★百貨展」(2023.4.12-7.9)が、東京・立川のPLAY! MUSEUMで開催されることを記念し、このたび、『まるのおうさま』(月刊絵本「かがくのとも」1971年2月号)を限定復刊いたしました。

『まるのおうさま』は、詩人・谷川俊太郎の言葉と、グラフィックデザイナー・粟津潔(1929-2009)の絵が出会い、奇想天外かつ見惚れるほど美しいコラボレーションを果たした伝説的な絵本です。刊行当時、谷川さんと粟津さんが、作品のねらいや制作の裏側を「かがくのとも」折り込み付録誌上で語り合っていました。その対談の様子を再録してお届けいたします。ぜひ、作品とあわせてお楽しみください。

ドライな絵本を

編集部 『まるのおうさま』は、そもそも「こどものとも」のために書いてくださったものを、一部分にちょっと手をいれてもらって、「かがくのとも」の方にいただいたわけですが、まず、谷川さんに、この作品のねらいとか、どういう世界を表現しようとしたかというようなお話から――

谷川 今までの日本の童話とか絵本とかを読んだり見たりしていると、どうもセンチメントに訴えるものが多いように思うんですよね。子どもの感情教育というものも、もちろん必要だとは思うけれども、どうも、そちらの方面のものばかりが多すぎるという気がしていたんです。だから、絵本をつくらないという話があった時に、ぼくはできるだけドライな絵本をつくりたいと思ったことと、もう一つは、なに子ちゃんがどうとかしたというようなんじゃなくて、抽象的な世界を扱っていながら、なおかつ、とっても人間を感じさせる外国の絵本なんかを見ていて、そういう風な絵本をぼくは好きだし、つくってもみたいなあという気持が非常に強かったんですよ。

編集部 今までの日本の童話や絵本には、センチメントに訴えるものが多かったというお話でしたが、たしかにそういう傾向がかなり強かったと思うし、そして、それがすなわち児童文学だという風に思われていたと思うんです。これは一つには、ストーリー性というものを重視するという側面があって、それはいわば、舞台があり、そこに主人公が登場してき、一つのドラマがあって終結していくという形、そういう、絵本というものが一つの完結した世界の形をとるということですね。そして、そういう主人公や一つの完結した世界にはいっていけない子ども、その世界に同化できない子どもは、そこからはじきだされてしまうということもあったわけですが、「かがくのとも」は、そういう子どもも参加できる部分というものもつくっていきたいと思っているわけです。

谷川 ぼくはまた、子どもの絵本というものは、深い意味で教育的じゃなきゃいけないという風に信じているんですけれどもね。表面的な意味で教育的な絵本はいっぱいあるんだけど……。絵本をかく人が自分の全身をかけて、こういうことを子どもに伝えておきたいという風な、はっきりとした意識のある絵本が少なくて、わりと、既視感のおとなの道徳にのっかってる姿勢が多かったのが不満だった。一方、逆に科学の絵本みたいに、はっきりした知識というものを、わかりやすく子どもに伝えるというような科学的努力ということをしている絵本というものも少なかったと思うんですよね。そういった二つの不満というのが根の方ではいっしょみたいなところがあるんですね。

絵本の絵と文章

谷川 この『まるのおうさま』の場合は、科学というものとは関係ないところから発想して、あくまでも絵本であるということ、そして、文章は非常に簡単な形でかいていって、あくまでも自分の中に絵のイメージがあっての文章であって、原稿用紙にかいていく時に文章自体があんまり完成してしまわないようにということが自分の中にありましたね。絵をかく人間と文章をかく人間との共同作業で絵本をつくりたいという発想が強かったんですよね。物語があって、その説明の絵がついているという風なんじゃなくて(そういうものは本当の絵本とはいえないと思うんですですけれども)文章の内蔵しているイメージがそれとは次元の違うところで絵として出てくるというようなものにしたいという気持が強かったですね。

粟津 たしかに谷川さんの文章には、絵ができた時にうまくかみあうという感じで書かれているというイメージがありますね。絵と文章との相互関係で何かできあがってくる世界というものがあると思うんですよ。

編集部 絵が50、文章が50で、できあがったものが100になるという形じゃなくて、100の絵と100の文章がうまくかみあって、100の絵本ができあがるという、いい絵本の基本みたいなものですね。

谷川 だから文章をかく方からいうと、いかに書かないかということがむずかしいことなんですよね。自分にはっきりしたイメージがないと、どうしても全部文章にかいちゃおうとして……。そうすると、絵はなんかそれの絵ときみたいになっちゃっておもしろくない。できるだけ書かずに一つのイメージをつくっていくということだと思うんだけれど、それには、信頼できるイラストレーターがいないとできないと思うんですよ。粟津さんには、絵本は、これがはじめてですか?

粟津 いろいろやってるようだけど、絵本は、はじめてですよ、意外にね。小さい子どもを対象にしてやったってのははじめてだから、ちょっと緊張してね。何ヶ月もかかっちゃった(笑)。

谷川 日本で今まででている絵本とずいぶん違った感じになると思うなあ。粟津さんの、今の他のグラフィックの仕事とも関連があるんじゃない?

粟津 それはそうですね。日常やっている仕事も、これと同じですよ。あの、ここで、まるを選んだということはすごくいいと思うんです。うんと小さい子っていうのは、三角なんかかいても、ほとんどまるに近い三角しかかけないし、四角なんかほとんどまるおんなじにかえちゃいますね。そういう意味でもまるからはじめるってのはおもしろいと思うんですよ。まるはものの根源なんだから。

編集部 そうですね。小さい子がらくがきをはじめると、よく、ぐるぐるぐるとまるくやりますね。

粟津 本能というか、そういうレベルでの話にできるというのはいいと思うんですね。そういう意味じゃ、さっきでた参加できるという性質が強い。これからいろいろな形がでてきて、だんだんものを覚えていくわけだけど、そういう世界の認識が、そこからはじめられるというのは、すごく自然にうまくいってるんじゃないかと思いましたね。だから色もできるだけ単純な原色を使って、小さな子どもが判別できる色の範囲にして、中間のあいまいな色は、できるだけとっちゃおうと。もちろん、オレンジ色みたいな中間色も少しはいっているけど、主役の色は、黄、赤、青などで、人間がいちばん認識しやすい色を使った。子どもが使ってるクレヨンのような色ですよ。

もの性ということ

粟津 この『まるのおうさま』で、もう一つおもしろいと思うのは、もの性というのがはっきりしているということね。日本では、比較的センチメンタルな部分が先にでてきちゃって、実際にものを通して見るというより、センチメンタリズムの壁を通して見るという感じに話がなりますね。ところが、この「まるのおうさま」の場合には、実際にはっきりあるものを一つ一つ確認しながら、そのものの不気味さとか、そのものの置かれている位置の奇妙さという面で世の中を知っていくという、そういうもの性をもっているという点では、すごくおもしろいと思うんです。日本の初期のものには、かなりもの性を持っている話があったと思うんですがね。明治にはいってから、いわゆる道徳的なものに変わっちゃってるからね。舌きりすずめの話なんか、いろいろなものが化けてでてくるような話でしょ。もののおそろしさというものがよくでてると思うね。

谷川 子どもっていうのは、わりあい、ものっていうものに感動しているものだよね。自分の記憶から考えてみても。道徳とか教訓とかというものは、ほとんど子どもにはわかってないと思うんだよね。ところが、ものをものとして見るおもしろさよりも、ものに感情移入して、わりと簡単に擬人化してしまうものが多いよね。

編集部 擬人化しないと、子どもにはむずかしいものだと思いこんでる人たちがわりあい多くて、困ったことだと思っているんですが。

谷川 ところが実際には、子どもはバネの切れっぱしとかくぎとか小石とかを、宝物にしてもっているものですよ。それを決して擬人化してなくて、世界を構成する部品だというような意識があって持っている。本当は、ものは、子どもにとってはおもしろいはずなんですよね。

粟津 それから『まるのおうさま』には、親も比較的みる機会がないようなものがでてくるね。ボールベアリングとか……。シンバルにしたって、名前は知ってるかもしれないけれど実際にものとして見る機会は少ないよね。楽器屋さんのウィンドーにかざってあるのを母親が立ちどまって見るにしても、普通の買物をする姿とは少し違ったようなものがそこにはありますよね。タイヤにしたって、実際にはタイヤだけをこうしてとりだして、ものとしてきちんと見るというんじゃなくて、ふつうは自動車として漠然とした世界で見ちゃうよね。


編集部 この絵本では、自動車があって、タイヤがそれについているというんじゃなくて、タイヤだけがころがって登場してきますよね。

粟津 それから、もう一つ、子どもというのは、それからどうしてという感じ、「そ、そ、それで、どうなったの」という感じで疑問がたえず進んでいくわけでしょ。そういう子どもの気持を、この絵本ではうまくとらえていて、だんだんずっとめぐりめぐったものが、また、読んでいる本人に帰ってくるあたりでおしまいになるわけで、そういうおもしろさがあるね。

科学とことば

編集部 「かがくのとも」で、谷川のさんの『まるのおうさま』を出そうということになったのは、科学というと、一般に、感性はあまり重視しないで、あることがらを散文的に教えればいいというような面があるので、逆に、ことばというものを大事にしたいと考えたからなんです。詩人のことばに対する感覚、さらに、ものをものとしてとらえる詩人の鋭い感覚を通して、子どもに語りかけたいと思いまして……。

谷川 詩人が、そういうことを教える役割として適当かどうかということは別として、日本の教育では、数式とか定理とかを棒暗記することが科学で、そして、そういうことばは日常の会話とは全然関係ないような無味乾燥なものとしてぼくらは受けとってきたんですが、フランスでは、数式は常に本当に正確なフランス語でいいかえられなくちゃならないっていうんだそうです。最初から一つの文章を丸暗記させるんじゃなくて、公式や定理を自分のことばで表現させて、それを先生といっしょに推こうしていって、遂にはこれしかいいようがないっていうところまでやるんだそうです。それが定理になるわけですね、必然的に。だから数学の授業が半分フランス語の授業みたいになってる。まあ、全部が全部、そういう風に今やっているかどうかは知らないけれど、ぼくは、それが科学と言語という問題のとっても中心的なところをついてると思ったんですけれどね。

われわれの日本語というのは、科学をいい表わすようなことばではなかったわけですよね。科学というのは、ほとんど、ドイツ語、フランス語、英語という形ではいってきてるわけでから、それを直訳した日本語は無味乾燥になり、抽象的になり、日常生活のことばから離れているという、これはもう、どうにもならないような必然性を持ってるわけだけれども、本当は科学のことばも、われわれがふだん使っているのと同じことばじゃなければいけないはずなんですよね。それでなければ、科学というものがいつまでたっても身につかないしね。

科学の本が文章を軽視しているという指摘は正しいと思うし、科学の本であればあるほど今の日本語でできる範囲内ででも、できるだけ正確に使うということがたいへん大事だと思うんですけれどもね。そしてそれは当然、科学的な発想にもかかわってくるんであって、科学というものが、定理や公式などの暗記の集積だという風に、われわれは教育されてきたけれども、それはたいへん困ることなわけですよね。

『まるのおうさま』で、ぼくがものっていうものに固執しているのは、言語のあいまいな面というのは、子どもに対してあまりよくないという意識があるからなんで、子どもには、できるだけものにそくして正確なことばというものを教えたほうがいいように思いますね。


粟津 この絵本は、ものの一つ一つと、ことばとの関係からイメージができていると思いますね。学校教育というのは、ぼくも詳しくないけれど、想像力をあんまり豊かに育てないよね。

谷川 丸谷才一さんが朝日新聞に、日本の国語教科書批判を書いていて、ぼくは全く、それに賛成だったんだけれども、作文なかでも、どう感じたかを書きなさいという指導がわりに多いでしょ。ぼくは、言語というものが自分でどうにでもなるもんじゃなくて、非常に客観的な社会の共通の約束事で、それは抵抗力があってガチンとした、実在しているものだってことを教える必要があると思うんですよね。

粟津 教育というのは、確実なことばを持つことだと思う。そのことばを通して、その人の思想を持って、そこからものをさらに見ていく、社会をみていくということだろうと思うけれどもね。

編集部 ことばの問題から話はずいぶんむずかしいところまできてしまいましたが、きょうはこのへんで。どうもありがとうございました。

2023.04.29

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