あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ|斉藤倫さん『さいごのゆうれい』

4月の新刊『さいごのゆうれい』は、小学生のハジメと、世界で「さいごのひとりかもしれない」ちいさなゆうれい、ネムが過ごす、ある夏の4日間の物語。童話『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』などの著者で、詩人の斉藤倫さんによる新刊です。あのねエッセイでは、斉藤さんが、作品を書く中で考えた「物語」や「通過儀礼」のこと、そして今回の「新しいゆうれい物語」が目指したものについて、語ってくださいました。

さいしょの「ゴースト・ストーリー」

斉藤 倫


生まれてから、だいたい、川ぞいに住んでいます。十年ほどそうじゃないこともあったけど、そのときも、いまおもえば、環七ぞいのアパートで、明け方に走るトレーラーの音を、川の音のように、枕元で聞いていました。

このお話を書いていた四年くらいのあいだ、ずっと頭にあったふたつのことがあります。

ひとつは、「行きて帰りし物語」。瀬田貞二さんが、トールキンの『ホビットの冒険』のサブタイトル、“There and Back Again”からとり出されたことばです。知らない場所に行き、なにかを得る、または失い、戻ってくる。よくできた子どもの物語や絵本は、だいたいそうなっているよ、という洞察です。

見回してみると、子どもの本どころか、映画も、マンガも、とくにゲームなどは、驚くほどその構造をしています。シナリオや世界観のフレームとして分析され、ほとんどしゃぶりつくされている、といってもいいでしょう。

もうひとつは、「通過儀礼」。共同体で受け継がれた、大人になるための制度です。

一方は、架空の物語のことで、一方は、実際のシステムですが、ふたつは、ひどく入り混じっています。かつて通過儀礼は物語をうまく活用していましたが、現在それが機能しなくなると、さまざまな娯楽のかたちをとった物語が、反対に通過儀礼の肩代わりをしているように見えます。つまり、ぼくらは、かなり意識的にならないと、物語のかたちをした擬似=通過儀礼で、子どもたちを、都合よく、社会にはめこんでしまいかねないのではないか。

物語にまつわるこうした問題を検証したい、という想いで、『さいごのゆうれい』を書いていました。なんといっても、ゆうれい、というのは、「行きて帰りし」存在そのものなのです。

また、かつて「七歳までは神のうち」ということばがありました。子どもは、亡くなる危険も高く、まだすっかりこのせかいの存在ではない。七五三も、そのボーダーを超えたお祝いだったはずです。ならば、社会の成員になる「通過儀礼」のまえに、このせかいにあるか、ないかという、存在のイニシエーションがある。それは都合よく利用できない「<生きて>帰りし」なのではないか ———。

新しいゆうれい物語を考えることで、そうした根源のような場所から語りはじめることができたら、これからなにもかもが頼りにならないくらい変わってしまう時代がきても、子どもたちが信じるに値する、一本の橋が架けられるかもしれない。

このお話には、川が、たくさん出てきます。かつての三途の川や、ギリシャ神話の忘却の河のように、図式的に岸をわけるのではない、物語になるまえの、川の声を聞きたかったのです。

 『さいごのゆうれい』は、ハジメという子が、ゆうれいを救おうとする話ですが、それだけではなく、ある物書きが、さいしょからゴースト・ストーリーを語り直そうとした、そんな話でもあったらいいな、とおもっています。



斉藤 倫(さいとう・りん)
1969年生まれ。詩人。『どろぼうのどろぼん』(福音館書店)で、第48回日本児童文学者協会新人賞、第64回小学館児童出版文化賞を受賞。おもな作品に『波うちぎわのシアン』(偕成社)、『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』(福音館書店)。絵本に『とうだい』(絵 小池アミイゴ/福音館書店)、うきまるとの共作で『はるとあき』(絵 吉田尚令/小学館)、『レミーさんのひきだし』(絵 くらはしれい/小学館)などがある。

2021.04.07

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