あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ|千葉茂樹さん『パラリンピックは世界をかえる ルートヴィヒ・グットマンの物語』

3月の新刊『パラリンピックは世界をかえる ルートヴィヒ・グットマンの物語』は、パラリンピックを生んだ脳神経外科医、ルートヴィヒ・グットマンの生涯を豊富なイラストとともに紹介した充実の伝記。「不治の病」とされていた脊髄損傷の治療を実現し、パラリンピックが生まれるきっかけを作った医師の活躍が生き生きと描かれた魅力的な一冊として、アメリカで高い評価を得た作品です。あのねエッセイでは、翻訳を手がけた千葉茂樹さんが、世界を変えたひとりの人間をめぐる熱い物語の内容を、分かりやすくご紹介くださいました。

最初はたったの16人

千葉茂樹


この原稿を書いている時点で、東京オリンピック・パラリンピックが今年開催されるのかどうか、定かではありません。正直なところ、コロナ禍収束の見通しがたっていない現状のもと、開催されるべきなのかどうか、されたらよろこべるのかどうか、自分に問いかけても、もやもやするばかりです。

しかしながら、本書はオリンピック・パラリンピック・イヤーかどうか、どこで開催されるのかどうかに関係なく、ぜひともすこしでも多くの方に読んでいただきたい作品なのです。きっと、パラリンピックに対する認識が大きくかわることでしょう。

パラリンピックといえば、オリンピック開催の年に、おなじ都市でおこなわれるスポーツイベントで、いまやその規模は世界で3番目ともいわれている大きな大会です。しかし、そのはじまりは、オリンピックとはまったく関係のない、とある病院の敷地でおこなわれた、わずか1種目、参加選手16人だけの小さな小さな手作りの競技会でした。

本書はその小さな競技会を立ち上げ、「世界をかえる」大会へ成長していく過程を見守りつづけた「パラリンピックの父」、ルートヴィヒ・グットマンの生涯と、パラリンピックが現在の隆盛にいたるまでの足取りを描いています。

物語は、第二次世界大戦の戦場、最前線での戦闘シーンからはじまります。ひとりの若い兵士が、敵の砲弾を浴びて脊髄に傷を負い、当時「治療法はない」とされていた下半身まひと診断されます。この若い兵士はのちに再登場し、物語の主人公グットマンと出会うことで、運命が大きくかわることになります。

物語は一転、グットマンの少年時代にさかのぼります。ドイツの田舎町でユダヤ人の両親のもとに生まれたグットマンは、すくすくと成長し、大学では医学を学び、やがて優秀な医師として認められていきます。ところが、そんなグットマンに暗雲がしのびよります。ヒトラーによるユダヤ人迫害です。

若きユダヤ人医師グットマンは、間一髪でホロコーストから逃れ、イギリスに亡命を果たします。そこで与えられた使命は、熟練した神経科医として、戦争で傷ついた兵士たちの治療にあたることでした。当時、「不治の病」とされていた脊髄損傷に画期的な治療法を提示して、致死率を大幅に下げることに成功し、その後の医学界に多大な貢献を果たしたグットマンですが、目標はさらに先にありました。死を待つだけだった患者に「目的のある生き方」という選択肢を与え、社会への復帰をうながすことです。そのリハビリに選んだのがスポーツだったのです。

本書のタイトルを見て、おおげさだなとお思いの方もいるかもしれません。しかし、強い意志と患者への深い愛情を持ったひとりの医師がうみだしたパラリンピックに、まさに世界をかえるほどの力があることは、一読してわかっていただけることでしょう。そして、わたし自身、たとえオリンピックからは気持ちが離れたとしても、パラリンピックへ強い関心を持ちつづけていくだろうことを確信しています。



千葉茂樹(ちば・しげき)
1959年、北海道生まれ。翻訳家。絵本から読みもの、ノンフィクションまで幅広い作品を手がける。訳書に、『リスタート』(あすなろ書房)、『シャクルトンの大漂流』(岩波書店)、『ピーティ』(鈴木出版)、『泥』(小学館)、『せかいでさいしょのポテトチップス』(BL出版)など多数。お気に入りのパラリンピックスポーツは車いすテニス。

2021.03.01

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