あのねエッセイ

今月の新刊エッセイ|なかじまかめいさん『くもとり山のイノシシびょういん―7つのおはなし―』

今回ご紹介するのは、絵本作家・加古里子さんが、生前愛情をこめて書き続けた幼年童話『くもとり山のイノシシびょういん』。刊行に合わせて、本作のために新たに絵を描き加えた、加古さんのお孫さんでもある なかじまかめいさんにエッセイを寄せていただきました。

「描きかえてくれて大いに結構」

なかじまかめい


大柄で外見に無頓着ではあるけれど、世界にたいする強力な愛情をどこか秘めていそうなイノシシ先生のほほ笑みに、私はごく自然に祖父の面影を見ていました。

一昨年の末ごろに挿絵のご依頼をいただいてからしばらくは、ただそのような印象でのみ作業に取りかかっていました。
祖父の仕草や優しさをイノシシ先生たちの世界に潜ませながら、その景色を写しとることが私の仕事だと考えていたのです。

ところが、人類の衛生観念に不可逆の転換をもたらした(ている)COVID-19への世間のリアクションにまつわるさまざまな言葉遣いを見るにつけ、加古の残したこの物語にたいする私なりの読み方と表し方も、しだいに変わっていきました。

思い返してみれば、ある年頃くらいまではカタツムリだろうとカメだろうと、平気で触っていた憶えがあります。
それなのに、いつのころだったか誰だったかに「ばい菌がたくさんだから触るのやめなさい」と言われてからというもの、触れることをすっかりためらうようになってしまいました。

それは私の衛生観念の大きな転換点でした。

これと似たことがいま、世の中に起きているのではないかという気がします。
不潔でなかったものが不潔になったり、何が不潔で何が不潔でないのだかよくわからなくなったり、もはや不潔は心の一存なのではないかと思わされたり。
判断は一定しません。

誰しもが少しずつの正義を揮(ふる)っているという、一見するととても素晴らしい世界にもかかわらず、それがかえって思わぬ軋轢(あつれき)を生んでいます。
そして、それが動物に対してもそうであったなら、というところに私の読みの変化の理由があります。

その変化は、動物に対する不潔の疑惑が増したとか、人間同士が衛生観念を基準にしてお互いを値踏みするようになったとかではなくて、そもそもこの、獣のフリをしている人間なのだか人間のフリをしている獣なのだかよくわからない世界観っていったい何なの!? ということにかかわります。

この疑問が心に浮かんでくるのに同期して、描く絵も変化しました。

今は、「病院では必ずマスク」「待合室では喋らない」「そもそも病院に来ないで……」。
特に具合の悪いわけでもなさそうなコウモリやハクビシンを待合室の絵に描きいれた私の意図は、ここにあります。

祖父はつねづね世の中の行く末を案じていましたが、『宇宙進化地球生命変遷放散総合図譜』(*注)の下絵にもその思いは強く表れています。
それは、地球上で何度かあったといわれる生命の大絶滅を、自らの放埓(ほうらつ)を引き金として人類が自演してしまうのではないかというものです。

これについて祖父と話していたおり、批判をその本質的な習慣とする人文学を下手に齧ったせいもあって、宇宙の歴史をひとつの流れで表す『図譜』を描く意図がどうも腑に落ちなかった私は、次のように問いかけました。

「いずれきっと描き変えられてしまうはずの図をいま描く理由はなんでしょうか」。

この問いにたしか祖父はこう答えました。

「描きかえてくれて大いに結構。いまわかっていることを描くからいいんだ」。

その口調はちょうどイノシシ先生のようにやさしいものでした。

技術による自然の管理が「加速」するなか、イノシシ先生がくもとり山のふもとでちいさな病院を営みつづけるためには何が必要か、考えさせられる約一年となりました。


*注 加古さんが、晩年に構想していた巨大な作品。ビッグバンから現代までの宇宙の歴史と生命の進化の流れを表現した図。NHK「日曜美術館」でも紹介された。未完。



なかじまかめい
1994年、神奈川県に生まれる。加古里子の実孫。国際基督教大学教養学部卒、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、同博士課程在籍中。現在は北海道・西興部村にて教育支援に従事する。これまでにも加古里子の作品に寄せて小品を発表している。

2021.01.06

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