特別インタビュー|堀内花子さん紅子さん 『ぐるんぱのようちえん』60周年
2025年4月、『ぐるんぱのようちえん』が刊行60周年を迎えます。西内ミナミさんの書かれた物語に、絵を描かれたのは堀内誠一さん。1987年に54歳で亡くなられて40年近く経ちますが、この間、PLAY! MUSEUM(東京・立川)の展覧会や「新美の巨人たち」(テレビ東京系列)の特集など、今もなお、そのお仕事は注目を集めています。そんな堀内誠一さんを父に持つ花子さん・紅子(もみこ)さん姉妹に、お話を伺いました。
『ぐるんぱのようちえん』60周年
堀内 花子さん 紅子さん
(写真右が花子さん、左が紅子さん)
――『ぐるんぱのようちえん』は、刊行から60年経った今も、子どもたちに人気の絵本です。お二人は、小さいころから『ぐるんぱ』が身近にあったのではと思いますが、その魅力はどこにあると感じられていますか?
花子
『ぐるんぱ』は、自分が4~5歳ころに刊行され、小学低学年の時には読んでいた記憶がありますけど、(最後の場面の)きょうだいがいっぱいいる世界や、お皿のプールとか靴のジャングルジムみたいなのに、ただ純粋に憧れて読んでたんですよ。だから、それがこんなにもたくさん読まれているっていうのは、不思議とも思わないけど、「へえ」っていうぐらいで……。
紅子
父の作品の中で、『ぐるんぱ』だけ突出した“何か”っていうのは、特に子どものころは感じてなかったですね。『たろうのおでかけ』とか、よく父の絵を真似していましたが、『ぐるんぱ』を真似した記憶は、あまりない。私、(ぐるんぱと同じ)1965年生まれなんですね。2月生まれで、父の日記を読むと、『ぐるんぱ』が完成したのも2月で、本当に同じくして生まれたみたい。ずっと『ぐるんぱ』と共にいて、私もこないだ還暦を迎えました(笑)。
『ぐるんぱ』って、絵は楽しい一方で、いろんな失敗をして最後に自分の居場所を見つけるっていう内容は、小さい3、4歳の子どもが読むとけっこう難しくて、すぐには伝わらないと思うんですよね。うちの子どもたちも、ちょっと早く与えすぎたのか、そんなにはまらなかった。
「大人にも響く」ということで、生き残ってるのかな。でも、たまに「小さいころから本当にぐるんぱが好きだった」「子どものころに読んで忘れられない」という方にも会います。自分と『ぐるんぱ』を重ねて読んだり、読むタイミングでいろいろ感じるものがあるのかな。
――自分も、「ストーリー」をしっかり受け止められたのは大人になってからかもしれないです。今、自分の子どもには「まだ内容を理解できないかもしれないけど、将来何か気づく時が来てくれたら嬉しいな」と思いながら読んでいます。
絵本以外にも、さまざまなお仕事をされていた堀内さんですが、『ぼくの絵本美術館』の中で「絵本作家の道こそ、運命が決めた本命だ」とも書かれています。お二人から見て、堀内さんは絵本のお仕事をどういうものと捉えていたとお感じですか?
花子
「絵本作家の道こそ、運命が決めた本命だ」というのは、父の晩年の言葉ですけど、そのタイミングでこの言葉を残したってことは、絵本の仕事が楽しかったんだと思う。西内ミナミさんに見せたかどうか、わからないけど、父の手帳に、この日にどの場面を描いたっていうメモが残ってたんですよ。ずいぶんいろいろ考えていて、『ぐるんぱ』ではちゃんと靴屋さんに取材に行ったり、絵を描く前の準備はしっかりしていたと思う。
紅子
基本、絵本の仕事以外は家ではしなかったから、絵本の仕事しか間近では見ていないんですよね。だから、ちっちゃいころは父をただ「絵本の絵を描く人」だと思ってたけど、今思えば、なんか使命感みたいな、一番誇りを持てる仕事だったのかな。でも、知人に宛てた手紙を読むと、「絵本の世界は、教育や政治の世界に近づきすぎちゃってもうダメだ」とか、「だから、そんな気負って書くのはやめよう」とか書いてて、いろんな葛藤もあったみたい。
最近、1974年にパリに行ってすぐのころに父の書いた手紙を新しく50通預かったんです。自分の書いた絵本について、仕上がった時に「これは会心の作」だなんて一回も言ってなくて、「何ひとつ思うように描けてない」と、全然自信がない。それが今、展覧会では、物語や読者対象に合わせて、いろんな絵を描き分けていてすごいと言われますけど、それが本当に父のやりたかったことなのかは、わかんないです。
花子
でも、若い時から絵本は好きで、絵本の仕事に憧れはやっぱりあったと思う。父が敬愛し、勉強していた海外のデザイナーたちは、広告デザインをやりながらも絵本を作っていて、それには絶対影響を受けていると思うんですよね。
ただ、次第にどんどん若い作家も出てきて、もう自分が出る幕ではないとも意識していたようなので、おそらく父が長生きしていたら、もっとヨーロッパの民話とか手がけていたかもね。自分としてもちょっと得意としていたと思うし。子どもを主人公にした日常のお話や、『ぐるんぱ』的なお話を描くのは断ってたかもしれない。
私たちが知っているころの父は、伝記や歴史の本、科学の本だとか、そういうのしか読んでなくて、いわゆる純文学はもう読んでいなかった。だから、「たくさんのふしぎ」では、やりたいことがあったのかなと思いますよね。
――これまで絵本作家としての堀内誠一さんのお話をお伺いしてきましたが、お二人から見て「父・堀内誠一」はどのような方でしたか?
紅子
よくされる質問だから、答えを用意してないとダメだよねってその度に思うんだけど……。
花子
なんだろうね、頑張ってたよね。14歳から働いて家族養ってるんですよね。そういう意味では、家族を養う大黒柱でなければならないという気持ちはあったと思う。そういう意味でも責任感みたいなのは強かったけど、小心なところもたくさんあって、すごく自信満々かっていうと、そうじゃないところもありますね。
紅子
自信満々でもないし。そんなかっこいい人でもなかった。
花子
でも、かっこよくありたいっていう、そういう憧れはあったかも。やっぱりファッションの仕事をしていたということも大きいと思う。
紅子
体の線が崩れないように、毎日体操して、鏡の前でポーズしちゃったりして、ちょっと可愛いところがあったかもね。人への手紙にも、「今は58キロぐらいだと思います」みたいなことを喜んで書いたり、裸になって自分で写真撮っちゃうみたいな(笑)。
ほんとに仕事量がすごかったし、文章も大人っぽかったけど、今振り返ると、そんなに達観するような年でもなく、いろんな迷いがあったんだろうな。母のことを怒らせちゃって謝ってる姿とか覚えてます。
花子
全然普通の人ですよね。ただ、やっぱり異様に記憶力がいいとか音感がいいとかはあったかも。
紅子
子どものころは、自意識過剰でしゃべり続けてたり、ちょっと天才的というか、せわしない子だったみたいです。
花子
妹や弟を集めて芝居をして遊ぶとか、けっこうガキ大将的なこともやってたみたいです。それがやっぱり働きに出るとなって、今度は自分が一番上じゃなくなって……。父ね、基本的にあんまり友達がいなかったんですよ。仕事の後に、みんなを引き連れてお酒を飲みにも行っていたけど、決して「友達だから」じゃないっていうのかな。
――単なる「友達」ではなく、同じ志をもった「仲間」が多かったんでしょうか?
花子
そうですね。昔の手紙を見ると、頻繁にやりとりしている方々とは、友達とはたぶん違うんだけど、心が通じてるというか、本当に信頼できるというか、いい「同志」だったんじゃないかなって。
特に絵本に関しては、父もまだまだ教えてもらえる相手、情報交換できる相手がたくさんいたんだと思う。昔はとにかく会わなきゃ話にならなかったし、仲間になって一つのものを作らなきゃという意識は、強かったと思うんですよね。今はネットがあるけど、それを人間同士、顔を合わせてやるっていうのも、仲間意識を強めますもんね。
あと父は、プロデューサー的なところがすごくあるんですよね。自分が書きたいということよりも、ここでこの人使うと面白いとか。それが好きだったんじゃないですかね。新聞作ってみたり、雑誌作ってみたり、もっと若い面白い人を見つけてくるとか、そういうことはきっとやりたかったんじゃないかなと思います。
――本日は貴重なお話ありがとうございました。
2025.03.05