絵本作家の誕生日

7月24日 梶山俊夫さん|独創的な線画で描き続けた画家

月に1回、その月にお誕生日を迎える作家・画家とその作品をご紹介する「絵本作家の誕生日」。7月24日は、『さんまいのおふだ』など味わい深い絵本で知られる梶山俊夫さん(1935-2015年)のお誕生日です。

独創的な線画で描き続けた画家

梶山俊夫さん(1935年7月24日生まれ)


今日7月24日は、梶山俊夫さんのお誕生日です。梶山さんは、『さんまいのおふだ』『だごだご ころころ』などの昔話絵本、『ごろはちだいみょうじん』などの人間味あふれる作品を手がけ、『かぜのおまつり』でのブラティスラヴァ世界絵本原画展金のりんご賞など、数多くの賞を受賞しました。独特の線画による作風は、伝統的な日本美術の表現に大きく影響を受けているように見えますが、意外にも学生時代は先端的なデザインや油彩を学び、広告会社でトップクラスのデザイナーとして活躍していました。梶山さんの絵本作家への道はどのようなものだったのでしょう。

梶山さんは、東京・亀戸の大工の棟梁だった父親に、デザイン科ならと許しをもらって武蔵野美術大学に入学しますが、内緒で移った油絵科の助手と大げんかをして退学。しかし、翌年入り直した日本大学芸術学部在籍時には、グラフィックデザインの登竜門である、日本宣伝美術会(日宣美)の特選に選ばれ学生ながら会員となり、在学中に広告会社の博報堂に嘱託社員として迎えられます。また、当時最先端の前衛芸術展として知られた「読売アンデパンダン展」にも出品するなど、絵画制作でも活躍していました。

大学卒業後、シェル美術賞を受賞して1年間のパリ留学の機会を得て、当時10ヶ月の娘と妻を日本に残し、単身でヨーロッパ各地をまわりました。現地の若手画家との交流のなかで、自分自身が日本人として背負っているものについて考えはじめたそうです。
一時帰国し、家族三人で渡欧する準備をしていたとき、転機が訪れます。友人に誘われた「奈良時代の廃寺跡・国分寺跡」を巡る旅がきっかけで、梶山さんは考古学にのめりこみます。そして、遺跡を捜して農村を歩くうち、茨城県に4年間疎開していた小学生の頃の記憶が蘇り、「畑や田んぼのあぜ道を歩いている自分が、一番正直な我が身の姿」だと気づき、日本でもう一度絵を描く決心をしました。

そんな折、仕事で縁のあった詩人・木島始さんから、絵本のレイアウト(構成)を依頼されます。『かえるのごほうび』(こどものとも1967年1月号)は、絵巻「鳥獣戯画」をもとに木島さんが物語を組み立てた絵本で、梶山さんは構成を担当するにあたり、実際に国立博物館所蔵の国宝「鳥獣戯画」を見に行きました。そこで梶山さんは、900年以上も前に描かれた絵を前に、作者の鳥羽僧正が「絵巻を挟んで向こう側に座っていて、じっと見ているような気がした」といいます。
まさにそのとき、同行していた編集者の松居直に「絵本をやってみませんか」と声をかけられ、梶山さんは本格的に絵本の世界に足を踏み入れます。最初の絵本は、博報堂の仕事仲間だった天野祐吉さんがお話を書いた『くじらのだいすけ』でした。
天野さんは、梶山さんの絵について「基本的にアップもロングもない、つねに対象と一定の距離をおいて描いている。そのことがぼくには、大きなおどろきだった。読み手に読み方を押しつけないのである。読み手が自分なりの思いをそこから自由に感じとってもらえばいい、という描き方である」と語っています。

梶山さんは、その独創的な絵画表現を得て、『ごろはちだいみょうじん』『さんまいのおふだ』『だごだご ころころ』など、ロングセラーとなる絵本を相次いで制作しました。
「何百年という、時も場所も超えて、作者と見る者とがごく自然な呼吸で、同次元で交感することができる。ぼくもそんな絵が描けたら、それが一番の理想だと思った」梶山さんの絵本創作の原点には、絵巻との出会いがあったのです。
梶山さんは、3年前に79歳でお亡くなりになりました。しかし、梶山さんが丹精込めて仕上げた絵本は、時を超え、これからも多くの子どもたちと交感し、読み継がれていくことでしょう。

梶山さんの作品一覧はこちらからご覧ください。


※『絵本作家のアトリエ2』に、梶山さんのアトリエでのインタビューが掲載されています。
 

2018.07.24

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