小風さち 絵本の小路から

確か知っていたはず|『星を数えて』デイヴィッド・アーモンド 著  金原瑞人 訳

作家の小風さちさんが、絵本作家たちとのエピソードをまじえながら綴った、絵本の魅力をじっくり味わえるエッセイ。最終回は、デイヴィッド・アーモンドさんによる物語を、金原瑞人さんが訳した 『星を数えて』(河出書房新社・品切)です。

確か知っていたはず

『星を数えて』デイヴィッド・アーモンド 著 金原瑞人 訳(河出書房新社)


 『星を数えて』(※)はイギリス人作家、デイヴィッド・アーモンドの自伝的な短編集である。彼は主にヤング・アダルトの分野の作家で、2010年に国際アンデルセン賞を受賞している。
 短編集なので、短いお話が19話収められている。初めて一話めの「世界のまんなか」を読み、次の「星を数えて」を読み終えると、私はいっとき茫然と空を仰いでしまった。ああこれは著者を突き破って生まれてきたなと感じた。
 調べると、デイヴィッド・アーモンドはイングランド北東部の海に近い街で育っている。フェリングという小さな街で、地図でいえば縦長のグレイト・ブリテン島の細くくびれた辺り、スコットランドとの境界近くになる。フェリングという街は、かつては石炭の採掘が盛んだったと私の古いガイドブックには書いてあるが、今は廃坑も多いらしい。写真にはくすんだ空気の中、煙突、煙、倉庫、突堤、古い貨物船などが写っている。『星を数えて』とは美しい命名だが、この自伝的な短編集はいわば、こうした過疎と荒廃のムードがただよう寂れた工業地域が舞台なのだ。大都市ロンドンから遠く、人々の意識からも時代からも取り残された場所。けれど物語に出てくる街も川も海岸も、地図を開けば実際に指でたどることができる場所。

 タイトルにもなっている「星を数えて」だが、それはざっとこんな話である。
 厳粛なカトリック教徒の家庭に育った"ぼく"、つまり著者は、卒業を間近に控え、学校の講堂で年老いたアイルランド人神父からこう説かれる。"星がいくつあるか数えられるという人には背を向けよ"と。学生達が知識をもって傲慢に偏らず、神の御前に常に従順で恐れを抱いて生きてゆけるようにと、神父は気遣ったのだ。すると、学友の一人が手を上げて質問する。それじゃあ、星の数をいくつまで数えたら罪になるのですか。神父はしばし黙りこくって、そして、百までだと答える。
 「百をこえると、魂はくもります。百をこえたら、命が危険にさらされます。そうなのです。百です。そこが限界です」
 だが主人公である"ぼく"は、14歳の夏の夜、数えてしまうのである。百と一、百と二、百と三……ほらみろ、大丈夫じゃないか。そしてその年の暮れ、最愛の父が亡くなる。

 14歳といえば、日本の中学二年生。子どもから大人への端境期である。これまで信じて疑う必要もなかった、物語や空想や善なるものの存在から、目を背けてでも見てみたい現実世界への興味や憧れ。"ぼく"はもはや純然たる子どもではなく、父の死は病気によるもので自分が星を数えたことが招いた災いではない、そんなことは現実的に有り得ないとわかっている。だがあの時、百という数字を境目に、自分は確かになにか尊い物をおろそかにした。百を超えて数えることで、うすうすではあっても、いわば現実世界へ身売りした自分を感じている。
 また、そのことにはっと気付いた瞬間、押し寄せてきた後悔や心の痛み。そういった感覚がどれほど年月を経ても、著者の中には、まざまざと蘇ってくるのではあるまいか。そしてある時、なにかの拍子に、活字に憑依して著者を突き破って出てくるのではあるまいか。

 『星を数えて』の短編は、現実の世界を緻密に描写してゆく静かな筆致の作品にもかかわらず、端境期さながら天国と腐敗、正義と狂気、ミューズとグロテスクがいつも混在している。少年は目に映る現実世界をそれはそれとして愛しつつ、つまり大人になる準備を整えつつ、物語や、空想の持つ力や、確か知っていたはずの善なるものの在り処にむかって「助けてくれ! 本当はそこにいるんだろ?」と細い声をあげる。そんな際どい"ぼく"の声が、お話のそこかしこから聞こえてくるような気がして、私は茫然と空を仰ぐのである。


※ 河出書房新社刊・品切(原題 "Counting Stars")



小風さち(こかぜ・さち)
1955年東京に生まれる。1977年から87年まで、イギリスのロンドン郊外に暮らした。『わにわにのおふろ』などの「わにわに」シリーズ、『とべ!ちいさいプロペラき』『あむ』『ぶーぶーぶー』『はしれ、きかんしゃ ちからあし』『おじいちゃんのSLアルバム』など多数の絵本、童話作品を手がける。

2018.03.15

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