はじめから、子供のことを書きたかった。
福音館で書く、ということはもちろんものすごく大きかったけれど、兄や友人たちに次々子供ができ、育ち、という状態をここ最近ずっと見ていたことも影響していた。
「子供って、ちょっと見ない間にすぐ大きくなるよなぁ。」
幼い頃どこかで会った「大人たち」がそう言っていたけれど、私にとっては「うるせー」という感じ、いつ会っても「大きくなったねぇ」「私も年を取るはずだわ」的なことばかり言われて、何も面白くなかった。もちろん数十年後、自分が同じことを言う「大人」になり果てるなんて、そのときは思いもしなかった。でも本当に「子供って、ちょっと見ない間にすぐ大きく」なるのだ!
すぐ大きくなるその体に、精神に、私はどう折り合いをつけていたのだろう。
ふと考え始めると、たちまち苦しくなった。だって全然折り合いなんてつけられていなかったことを、すぐに思い出したから。「大きくなる」体も、「広くなる」視野も、私はこわかった。ずっとこわかった。でもその「こわさ」に蓋をして、「こわさ」なんてなかったふりをして、涼しい顔でいつの間にかここまで来ました、みたいな態度でいる。私は、私が蓋をしてきたことを書きたかった。それが私の仕事だ、そう思った。
慧くん、という主人公はすぐに現れてくれた。女の子ではなかった。男の子のからだの変化を、それを恐れる気持ちを書きたかった。女の子の方がいつだって「大人びて」いて、男の子はきっとそれが怖かっただろうし、少し寂しかっただろうと思うのだ(女の子がこわがっていることを、彼らはきっと知ることもなかっただろう。そういうことはいつだって、後から知るのだ)。
どうして君たちの体が「大きく」なるのか、「大人」にならないといけないのか、慧くんに向けて書こうと思った。でも書いてゆくうち、私は、これを慧くんのような「子どもたち」に向けて書いていない、ということに気づいた。
相手は結局自分だった。私は未だにこわがっているのだった。
「大人」と呼ばれる範疇にいながら、私は全然「大人」であることに折り合いをつけられていない。初対面の人になめらかに自己紹介をし、久しぶりに会った人に天気の話をし、水道やガス料金をきちんと払い、あまつさえ車を運転していても、それでも私は自分の体が変わってゆくことが、そしてその先がこわいのだ。
私って、なんで生きてるの?
それに気づいてからは、大幅な改稿をした。無理して「道理の分かった大人」ぶるのではなく、慧くんと一緒にこわがろう、と思った。正直であろう、と。慧くんはずっと一緒にいてくれた(ありがとう、慧くん!)。
だからこの作品は恥ずかしいくらい正直な、剥き出しの作品になった。情けないけれど、「分かってほしい」という気持ちはない。作家としてだめだなあ。でも、私は私に、もっともっと正直になることが出来た。