一郎くんに出会う旅ー『一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして』刊行によせて
【第2回】一郎くんを見送った人たち―72年ぶりの「おかえり」
東京中日新聞で連載された『さまよう日章旗』(2014年8月)から生まれた、ノンフィクション絵本『一郎くんの写真』(たくさんのふしぎ2019年9月号)。一郎くんの足跡をたどり、担当編集者が現在の静岡市を歩いたエッセイを全3回でお届けします。第2回目は寄せ書きを集めた一郎くんの実姉・ちゑさんのエピソードをご紹介します。
一郎くんは、中田家の分家の生まれで、幼少のころ、同じ北番町の近所にあった本家の養子となりました。一郎くんの写真を持ち続けていた「お母さん」は、実は養子先の義理の母親だったのです。
ただ、日本ではほんの数十年前まで、家を継ぐための養子は頻繁に行われていました。一郎くんとお母さんも、血のつながりなど関係なく、本当の「母子」だったのではないかと思います。
一郎くんの実母、とみさんは、戦後間もなく1948年に亡くなりました。当時幼かった孫の片井統子(ちゑさんの娘)さんが唯一覚えている記憶は、新しい履き物を買ってもらい、うれしくて家の中で履いて、そのまま外に出ようとすると、とみさんが慌てて止めたということ。「それは死人がすることだ」と言っていたそうです。
これは日本に古くからある禁忌のひとつですが、一郎くんをはじめ家族を戦争で多く亡くしていたとみさんにとって、もう誰も死んでほしくない、というのは切実な思いだったのではないでしょうか。
養子先の母、当よ(とよ)さんは、息子の一郎くんを亡くした後、夫にも先立たれ、戦後も一人で本家を守っていました。片井さんの弟、中田宏志さんは、毎日のように訪ねていた本家で会う当よさんを、「おっかない人だった」と記憶しています。
絵本にも登場するたばこのエピソードですが、当時小学生だった片井さんは、めずらしいたばこの包みを開けてみたくてたまらず、たびたび頼んだそうですが、決して開けてくれなかったそうです。
そんな当よさんも、晩年は少し離れた茶町に住む妹さんを頼るようになり、妹さん宅の仏壇に一郎くんの思い出を残して、1974年に亡くなられました。
一郎くんの日章旗の寄せ書きを中心になって集めたちゑさんは、一郎くんとは2歳離れた、実のお姉さんでした。近所の子どもたちがいたずらをすると、きびしくしかるけれどもお菓子をくれたりもする、シャキシャキとした町のお姉さん的存在だったそうです。
戦前から警察署の電話交換手などを務めていたちゑさんは、戦後も市や県で物価統計調査員として活躍し、晩年にはその働きが認められて勲章を受けました。
一郎くんが亡くなった翌年、ちゑさんの夫も戦死しますが、後に再婚。二人の夫との間に片井さんたち3人の子どもがあり、幸せに暮らしました。
しかし2001年に82歳で亡くなるその時まで、弟・一郎くんのことを忘れることはなかったでしょう。
中田家の本家と分家は、歩いてほんの2、3分の距離。敷地の広い本家では、ヤギやニワトリを飼い、お乳や卵、庭で育てたトマトを分家に分けるなど、頻繁に行き来があったそうです。
一郎くんとちゑさんは、学校に通っていた子どもの時も、大人になってそれぞれ勤めてからも、きっと毎日のように北番町のどこかで会って、「ただいま」「おかえり」という挨拶を交わしていたことでしょう。
遠く南方の戦場からアメリカを経て帰ってきた一郎くんの日章旗に、空の上のちゑさんも、72年間言えなかった最後の「おかえり」を言ったかもしれませんね。
2019.08.07
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