今月の新刊エッセイ特別編|角幡唯介さん『極夜の探検』
毎月1冊書籍の新刊をとりあげ、著者エッセイをお届けしている「あのねエッセイ」。今月は、月刊誌の著者エッセイをお届けいたします。「たくさんのふしぎ」2月号は、『極夜の探検』。『極夜行』(文藝春秋)の著者でもある探検家・角幡唯介さんが、子どもたちに贈るドキュメント絵本です。
魔王の真の姿
角幡唯介
小学生の頃、音楽の時間にシューベルトの歌曲「魔王」を習いました。強風の闇夜の道を、馬にまたがり疾駆する父と子ども。子どもは闇のむこうに魔王の姿を認め、恐怖に震えます。父は、あれは夜霧だよ、木の葉のざわめきだよ、だから大丈夫だよとなだめます。でも、子どもは納得しません。子どもにはたしかに闇の奥に魔王の姿が見えるのです。そして、お父さん、お父さん、魔王がぼくを捕まえると狂ったように絶叫し、最後は冷たくなって死んでしまう、そんな歌です。魔手が迫りくるようなピアノの低い旋律と、必死に助けをもとめる子どもの絶叫。なんという恐ろしい曲なのだ! 当時の印象は、今も強烈な記憶となってのこっています。
極夜の探検の途中で闇の恐ろしさに震えたとき、ぼくは何度か「魔王」のことを思い出しました。闇のなかにいると、風の音は明るいときと比べて何倍にも増幅して聞こえます。ひどい嵐になると、ゴゴゴーという轟音がひびき、大地が地割れを起こしているのではないかと錯覚するほどです。それはまさに子どもが見た魔王そのものでした。ぼくにできることといえば、寝袋のなかで縮こまって、父にかわる超越的存在に祈ることだけでした。
シューベルトが歌曲で表現した魔王。それはたしかに実在します。しかし、普段のぼくらはもう魔王を見ることができません。魔王を見るだけの感性が失われてしまったのです。
自然と深い関係をもっていたかつての人間は皆、魔王を見る目をもっていたのだと思います。人間にとって自然とはどういう存在か、良い面も悪い面もふくめて、それを見とおすことができました。でもシューベルトの時代には、すでにそれは失われていた。だから魔王が見えるのは純真な子どもだけで、父親には見えなかったのでしょう。
昔の人がもっていたこの自然とのつながりをどうやったら取りもどせるのか、最近、ぼくはそれをいつも考えています。極夜の探検も、太陽や月や星や闇といった、もろもろの自然現象と本質的な関係をむすぶための壮大なプロジェクトでした。本質的な関係というのは、少々大げさな言い方をすれば、太陽や月や星がなければ自分の命を保つことがむずかしくなる、そういう関係です。こちらの命を脅かしにくるほどの闇の恐怖に震えることも、その一つのあらわれです。深いつながりをもつことで闇の真の姿が魔王となってたちあらわれてくるのです。
ぼくにとって極夜の探検は、幼い頃に聞いた、あの「魔王」を見るための試みだったのかもしれません。
2月号 作者のことばより
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
作家・探検家 ヒマラヤの謎の川とよばれるツアンポー峡谷を二度、単独で探検し、『空白の五マイル』(集英社)でデビュー。近年は北極圏での活動に力を入れ、2016~17年冬に80日間にわたり極夜を探検し、2018年春は狩りで食料を現地調達しながら75日間の長期旅行を実行した。『極夜行』(文藝春秋)で本屋大賞ノンフィクション賞、大佛次郎賞授賞。他、著書、受賞歴多数。
2020.01.06