福音館書店と松居直の物語

福音館書店と松居直の物語

日本の児童書の世界に
大きな足跡を残した松居直。
彼の物語をご紹介します。

1. 戦後からの出発

学生時代の松居直

月刊絵本「こどものとも」の初代編集長・松居直は1926年、京都市紫竹の近江商人の家系に生まれました。幼いころは、母親に絵雑誌「コドモノクニ」* をよく読んでもらい、北原白秋や西條八十の詩に親しみます。小学生のころは、「ドリトル先生」が愛読書という少年でした。

やがて日本が戦争へ突入すると、松居も当時の多くの若者と同様、20代になれば国のために兵隊に行き戦場で死ぬものと、信じて疑わぬ日々を過ごします。しかし戦争は終わり、生きながらえた松居に突き付けられたのは、死と向き合うこととは全く逆の「これから自分はいかに生きるのか」という問いでした。いかに生きるべきか、ということへの探求心が、松居を生涯突き動かしていくことになります。

* 1922年1月1日から1944年3月1日にかけて東京社(現ハースト婦人画報社)から出版されていた児童雑誌。

2. ことば、そして福音館との出会い

「生きる」ことを自らに問う日々の中で、やがて同志社大学に入学した松居に、2つの大きな出会いが訪れます。一つ目の出会いは、大学の礼拝に参加し「ヨハネによる福音書」の一章を聞いたときのことでした。

「初めに言 (ことば) があった。言は神と共にあった。言は神であった。(中略) この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
(「ヨハネによる福音書」第一章 1節~5節)

松居はこれを聞き、「ことば」こそが人を生かす光なのだと確信を得たといいます。子どもたちに生きる糧となる「ことば」を届けよう、という松居の信念は、このときの体験に深く根差しています。

1950年代の石川県金沢福音館の様子

もう一つの出会いは、卒業を間近に控えたころに訪れました。同級生のガールフレンドに、「ホワイトクリスマスを見に来ませんか」と誘われた松居は、彼女の実家がある金沢へと向かい、その父親である佐藤喜一が金沢市内の香林坊で経営していた小さな書店「福音館」を訪れます。

当時、佐藤喜一は独自に出版物の制作を検討しており、松居に編集者の可能性を見出します。松居もまた、佐藤に対して非常に商才のある人物という印象を抱き、「何かそこに道が開けるかもしれない」と、卒業後に福音館に飛び込むことを決断したのです。

こうして、編集者としての松居のキャリアが文字通りゼロからスタートしました。

3. 「こどものとも」の誕生

「福音館」に入社した松居は、ポケットサイズの小さな事典「小事典文庫シリーズ」の編集を手がけ成功をおさめます。その成功を足掛かりに、福音館が出版部門を独立させ1952年に東京へと進出すると、「これからは女性や子ども向けの」出版物の需要が高まる時代が来ると考え、まず1953年に月刊誌「母の友」を創刊します。

そして1956年に、毎月一冊、新作の絵本を届けるという当時としては画期的な形態の月刊絵本「こどものとも」を創刊しました。

「母の友」創刊号 (左)と「こどものとも」創刊号(右)

「こどものとも」は、当時類型化しつつあった童画の世界に限界を感じていた松居が、子どもと対等に向き合い、子どものために新しい絵本を届けよう、という思いから始めたものでした。そのため絵については、日本画や洋画などの世界から新しい可能性を秘めた画家に絵本制作を依頼していきました。

創刊号『ビップとちょうちょう』は、文を詩人の与田凖一さん、絵を日本画家の堀文子さんが手がけ、当時としては斬新な黒を基調とした表紙絵が特徴の作品でした。こうして、松居の新しい絵本づくりがスタートしました。

4. なかなか売れない「こどものとも」

意欲的な試みであった月刊絵本「こどものとも」は、しかしながら刊行当初は取り扱う書店がほとんどなく、創刊号の半分が売れ残るなど、苦戦が続きました。厳しい状況が1年ほど続き、廃刊が検討されるまでになったころ、松居に1本の連絡が入ります。

それは、第4回産経児童出版文化賞に「こどものとも」が選ばれたという一報でした。この嬉しい知らせは刊行継続を切望する松居の背中を力強く押し、「こどものとも」は続刊する運びとなります。

また、松居は何とか状況を打開しようと、自ら全国の幼稚園や保育園を精力的に回り、絵本の大切さを伝え、「こどものとも」の販売活動をすることで、独自の販売ルートを築いていきました。苦しいスタートを切った「こどものとも」でしたが、その質の高さが徐々に評価され、少しずつ軌道に乗っていきました。

絵本の講演を行う松居

5. ISUMI会

子どもの本の編集者として駆け出しの時期の松居を支えたのは、師とも同志ともいえる人々とのつながりでした。平凡社「児童百科事典」の編集長であった瀬田貞二さん、松居が若いころから訳書を愛読し、初めて会った際には思わず最敬礼をしたという石井桃子さん、そしてこの2人を松居に引き合わせた岩波書店の編集者であったいぬいとみこさん、サンケイ新聞の記者であった鈴木晋一さん。松居を加えたこの5人は、月に一度の勉強会を始めます。

「ISUMI会」と名づけられ、のちに渡辺茂男さんも参加したこの会では、「これからの日本の子どもたちのためにどういう仕事をすべきか」という共通の関心のもと、毎回様々な議論が交わされました。松居にとっては、絵本作りの礎を築くうえでかけがえのない場所であり、こうした人々とのつながりこそが、松居の新しい絵本作りを支えていました。

a. 石井桃子さんと松居
b. 渡辺茂男さんと鈴木晋一さん
c. 石井桃子さんと瀬田貞二さん
d. いぬいとみこさん(中央)

a.b.c 写真提供:(公財)東京子ども図書館

7. 横長の判型・横書きの絵本の誕生

松居が、絵本作りにおいて従来の枠組みに囚われなかったのは、作家の選び方だけではありませんでした。子どもが心から楽しいと思える絵本を、もっとも適した形で届けるために、当時としては珍しい横長の判型、さらに横書きの絵本を世に送り出します。

1961年に翻訳で『100まんびきのねこ』を刊行した際、こんな横長の本は本箱に入らないという書店や図書館からの指摘に対して松居は「本箱があって本があるんじゃありません、本があって本箱があるんですから、本箱の方を変えてください」と答えたといいます。同じ年、「こどものとも」でも、日本の創作作品としては初となる横判・横書きの絵本『とらっく とらっく とらっく』を世に送り出します。

松居は、批判やリスクを恐れることなく、実際に形にして届けることで絵本の可能性を広げ、児童文学の世界をより豊かにしていきました。

8. 海外へ

松居とベッティーナ・ヒューリマンさん (左写真)
海外視察中の松居 (右写真)、1962年撮影

1960年代に「こどものとも」が軌道に乗りはじめると、松居は海外作品の翻訳出版にも本格的に取り組むようになります。1962年に初めての海外視察に出ると、石井桃子さん、スイスの児童文学者ベッティーナ・ヒューリマンさん、松岡享子さんらの協力を得ながら、次々に海外の優れた作品を見出していきました。

松居が関わって日本で翻訳出版された作品には、ディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズ、ハンス・フィッシャーの『ブレーメンのおんがくたい』、エウゲーニー・M・ラチョフの『てぶくろ』、マーシャ・ブラウンの『三びきのやぎのがらがらどん』など、今も読み継がれるロングセラーの絵本が数多くあります。

また、松居は海外の優れた編集者のもとを積極的に訪れ、その知見や編集に対する姿勢を参考にしていったほか、欧米の図書館にも足を運び、出版と図書館の関係、文化の担い手としての出版社のあり方にも意識を向けるようになりました。

9. アジアへの思い

アジア各国を訪れた際の松居

戦後、松居はいちばん身近なアジアの国々のことを自分は何も知らないということに気づき、大きな衝撃を受けます。

近隣の国々への敬意はその国を知ることから育まれると考えた松居は、「こどものとも」でも、アジアのおはなし、特に昔話を意識的に取り上げようと考えました。

ユネスコアジア文化センター等の活動にも参加し、韓国、中国、インドなどの才能豊かな作家と接点をもち、彼らの作品を日本に紹介するとともに、自らも各国に足を運んで、現地の人々との交流を大切にし続けました。

生涯にわたって、絵本をアジアの国々に根付かせる活動に尽力した松居は、「アジアをひとくくりで考えることは、アジアを見失う一番のことなのです」と言っています。

10. 子どもたちの豊かな世界を思い続けて

社会福祉法人 豊川保育園にて、1998年撮影

編集者の第一線を退いてからも、松居は全国の幼稚園・保育園に足を運び、講演活動を通して、絵本と「ことば」の大切さを発信しつづけました。

2000年には、「子ども読書年推進会議」の副代表を務めるなかで、イギリスで始まった「ブックスタート」の活動を知ります。赤ちゃんとその保護者に絵本を手渡し、絵本を介して心がふれあう楽しいひとときを創出するという活動に感銘を受けた松居は、日本にもブックスタートを導入するべく、組織の立ち上げに携わります。

NPOブックスタートの設立後は理事長に就任し、組織の運営に関わりました。

2022年11月、松居直は96歳で亡くなりました。

ブックスタートは今では、赤ちゃんの幸せを願い、行政と市民が協働する自治体の事業として全国で行われています。