松居直
絵本のせかい

Tadashi Matsui
World of picture book

『ぐりとぐら』、『おおきなかぶ』、「うさこちゃん」シリーズ……数々の名作誕生の陰には、松居直 (まつい ただし) という編集者がいました。彼はどんな思いを絵本に込めたのか。そして、彼を支えた人たちとは。「絵本のせかい」に秘められた、一人の編集者の物語をご紹介します。

母の友、こどものとも
松居直ってどんなひと?
『ぐりとぐら』『おおきなかぶ』など多くのロングセラー絵本を生みだしてきた月刊絵本「こどものとも」を創刊し、戦後日本の絵本づくりに新しい風を吹き込みました。また、様々な海外絵本を日本で翻訳出版し、日本により豊かな「絵本のせかい」を届けていきました。

大切な3つの思い

松居は、自身の原体験と、同時代を生きた様々な人々からの影響をもとに、
「絵本のせかい」に新しい考えを持ち込みました。
今も福音館書店が大切にしている、3つの思いを紹介します。

1

子どものための絵本

松居は、大人から見た「子どもらしい本」ではなく、子どもたちが本当に心から楽しめる、本物の絵本が必要と考え、気鋭の若い画家や、他分野の芸術家に声をかけ、新しい絵本作りに挑戦していきました。

2

絵本は読んで聞かせるもの

絵本は「子どもに読ませるもの」ではなく、「大人が子どもに読んで聞かせるもの」と松居は主張しました。絵本を大人が読み、子どもが耳から聞くことで、「ことば」は生きた「ことば」として子どもに伝わります。それが子どもと大人の共通の体験として忘れえぬ時間となる、と考えたのです。

3

ことばは生きる力

「ことば」は人々が生きる上での「力」や「糧」になると考えていた松居は、絵本体験を子どもたちが「ことば」に出会う大切な機会と考え、「ことば」を大切にした絵本作りを行いました。

関係図

松居は国内外を問わず、さまざまな人々と関わりながら、絵本のせかいをひろげていきました。
特にかかわりが深かった人々とのつながりを見ながら、
日本の絵本の歴史を感じとってみてください。

松居直 のつながり
人々のつながり

道を示してくれた「先生」
ともに歩んだ「同志」

石井桃子
数々の名作を日本に伝えた翻訳家、児童文学者
『ちいさなうさこちゃん』
『ピーターラビットのおはなし』
石井桃子

戦前に『クマのプーさん』(岩波書店)を翻訳出版し、戦後には「岩波少年文庫」 「岩波の子どもの本」の企画編集にも携わるなど、松居が出会う前から、子どもたちに本の楽しみを届けるため活躍されていた石井桃子(いしいももこ)さん。
若い時からそれらの著作に親しんでいた松居にとって、石井さんは憧れの存在でした。様々な海外作品を紹介・翻訳していただいただけでなく、創作絵本の文章も多く手掛けていただくなど、松居にとって精神的な“先生”というべき存在でした。福音館書店が初めて刊行した翻訳絵本『100まんびきのねこ』を松居に紹介したのも石井さんでした。以後も、「ピーターラビットの絵本」シリーズや「ブルーナの絵本」シリーズなど、数々の名作の翻訳を手がけました。

『ちいさなうさこちゃん』
『ピーターラビットのおはなし』
『ちいさなねこ』
瀬田貞二
絵本とは何か……戦後の児童文学を導いた航海長
『三びきのやぎのがらがらどん』
『きょうはなんのひ?』
瀬田貞二

『三びきのやぎのがらがらどん』『おだんごぱん』と聞けば、「読んだことある!」という方が多いのではないでしょうか。その日本語訳を手掛けているのが瀬田貞二(せたていじ)さんです。『指輪物語』(評論社)「ナルニア国物語」シリーズ(岩波書店)の訳者としても著名な瀬田さんは、卓越した言葉のセンスだけでなく、児童文学に関する広い知識と深い見識を持ち、子どもの本に関わる多くの人々を精神的に導いた存在でした。月刊絵本「こどものとも」の折込ふろくに掲載された連載では、絵本に関する評論や作家論を展開し、子どもの本がどうあるべきかを示すとともに、児童書の世界の豊かさや楽しみ方を伝えました。当時の連載は『絵本論』に収められています。
松居が瀬田さんから受けた影響は非常に大きく、このような言葉を残しています。
「本当に瀬田さんからはたくさんのことを学びました。私がものをかけるようになったのは瀬田貞二の編集者だったからです。」

『三びきのやぎのがらがらどん』
『きょうはなんのひ?』
『絵本論』
松岡享子
創作、翻訳、図書館…子どもと本を繋いだ児童文学者
『くまのパディントン』
『おふろだいすき』
松岡享子

「ブルーナの絵本」シリーズや「くまのパディントン」シリーズの翻訳のほか、『おふろだいすき』などの創作でも知られる松岡享子(まつおかきょうこ)さん。自宅で家庭文庫「松の実文庫」をひらいた後、石井桃子さんらと共に東京子ども図書館を設立するなど、子どもたちの本の世界を豊かにするため、活躍し続けました。

松岡さんは慶應義塾大学の図書館で働いていたころから、「こどものとも」にはがきを寄せ、的確な批評が松居の目に留まったことから交流が始まりました。アメリカのメリーランド州・ボルティモア市の公共図書館で児童図書館員として勤めて以降、松居の海外視察にもたびたび協力し、松居が海外の児童図書館事情を知ったり、オランダでディック・ブルーナさんの絵本と出会ったりするきっかけを作りました。

『くまのパディントン』
『おふろだいすき』
『しろいうさぎとくろいうさぎ』
渡辺茂男
欧米の優れた作品を届けた翻訳家、子どもの本の作家
『エルマーのぼうけん』
『しょうぼうじどうしゃじぷた』
渡辺茂男

『エルマーのぼうけん』『どろんこハリー』の翻訳や、『しょうぼうじどうしゃ じぷた』の文を手がけた渡辺茂男(わたなべしげお)さん。戦後、連合国総司令部・民間情報教育局(CIE)管轄の地元静岡の図書館で働いたことをきっかけに、慶応義塾大学に開設された日本図書館学校に入学。そこで、アメリカで出版されていた『エルマーのぼうけん』に出会い、強く心を惹かれます。この頃、石井桃子さんや村岡花子さん (『いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう』や「赤毛のアン」シリーズの翻訳等で知られる児童文学者) との出会いもありました。
その後アメリカに留学し、ニューヨーク公共図書館・児童部門での勤務を経て帰国。石井さん、瀬田貞二さん、いぬいとみこさん、鈴木晋一さん、松居直が結成した「ISUMI会」という児童文学研究会に加わり、子どもに届ける本はどうあるべきか、日々議論・研究しました。やがて児童文学の世界で本格的に活動するようになり、『エルマーのぼうけん』をはじめ欧米の優れた児童文学や絵本を紹介するとともに、楽しさに溢れた様々な創作作品も子どもたちに届け続けました。また、IBBY国際児童図書評議会の副会長も務め、子どもの本の国際交流にも貢献しました。

『エルマーのぼうけん』
『しょうぼうじどうしゃ じぷた』
『どろんこハリー』

道を示してくれた「先生」ともに歩んだ「同志」

新しい才能の発見

安野光雅
美術の教師から世界的な絵本画家へ
『ふしぎなえ』
『旅の絵本』
安野光雅

緻密に描きこまれた水彩画で、今も多くの人々を魅了する安野光雅(あんのみつまさ)さん。当初は学校の美術教員を務める傍ら、本の挿画などの絵の仕事をしていました。偶然にも松居の子どもが安野さんが教鞭をとる学校に通っていたことで、ふたりは知り合いました。
安野さんに絵本制作をもちかけた松居は、絵本にはお話(ことば)がなくてはならないと思っていた安野さんに「話なんかなくてもいいですよ」と告げたといいます。言葉がなくても子どもが心から楽しめるものであれば、それもまた素晴らしい絵本であると松居は考えていたのです。安野さんはとても驚きましたが、言葉のない絵本『ふしぎなえ』を生みだし、42歳で絵本作家としてデビューしました。その後も、『旅の絵本』など文字のない絵本を描き、世界的にも高い評価を獲得するようになりました。

『ふしぎなえ』
『旅の絵本』
『はじめてであう すうがくの絵本』
中川李枝子 山脇百合子
保育士の経験から生まれた“子どものための”物語絵本
『いやいやえん』
『ぐりとぐら』
中川李枝子&山脇百合子

物語絵本として日本でもっとも読まれている『ぐりとぐら』。この作品を生み出した中川李枝子(なかがわりえこ)さんは、当時、保育士として働きながら執筆活動を行っていました。やがて同人誌に掲載された作品『いやいやえん』が石井桃子さんの目に留まり、1962年に福音館書店からデビューします。松居は、保育の現場で子どもたちの「ことば」に日々触れている中川さんの生き生きとした文体に注目していました。そしてこの作品の挿絵を手がけたのが、中川さんの実の妹で、当時まだ大学生だった大村百合子(おおむらゆりこ)さん(後に結婚し山脇姓)です。おふたりがてがけ、月刊誌「母の友」に掲載された『たまご』という作品を見た松居は、「これはすばらしい絵本になる」と考え、絵本の執筆をおふたりに依頼しました。こうして、1963年12月に刊行されたのが『ぐりとぐら』でした。

『いやいやえん』
『ぐりとぐら』
『そらいろのたね』
加古里子
子どもの未来に思いを寄せた絵本作家
『かわ』
『だるまちゃんとてんぐちゃん』
加古里子

「だるまちゃん」シリーズや、『からすのパンやさん』(偕成社)などで知られる加古里子(かこさとし)さんは、東京大学を卒業後、化学工業会社の研究所に技術士として勤める傍ら、子ども向けの人形劇や紙芝居の活動を続けていました。その活動の中で、当時福音館書店に勤め、のちに堀内誠一夫人となる内田路子さんに出会い、内田さんが松居に加古さんを紹介します。そしてその経歴に着目した松居が絵本制作を依頼し、『だむのおじさんたち』で加古さんは絵本作家としてデビューしました。工学博士の肩書を持つ加古さんであれば、専門的な目線が必要なテーマでも、そこに生きる人々の姿とともに、子どもたちが楽しみながら理解できるように描けるはずだ、と松居は考えたのです。
加古さんはその後、多くの物語絵本も手掛けるようになりますが、『かわ』『海』『地球』などの科学的なテーマを扱う絵本も数多く残しました。

『かわ』
『だるまちゃんとてんぐちゃん』
『宇宙』
人々のつながり
松居直 のつながり
地域とのつながり

異ジャンルから絵本へ

堀内誠一
多分野で活躍した、稀代のグラフィックデザイナー
『ぐるんぱのようちえん』
『こすずめのぼうけん』
堀内誠一

図案家であった父親の影響で、幼いころから絵やデザインに親しんだ堀内誠一(ほりうちせいいち)さん。わずか14歳で伊勢丹の宣伝課に入社した堀内さんは、デザインの知識と経験を身につけ、やがて卓越したグラフィックデザイナーとして活躍していきます。皆さんもよくご存じのマガジンハウスの雑誌「anan」や「BRUTUS」のロゴを手掛けたのは、ほかならぬ堀内さんなのです。
そんな堀内さんが絵本画家としてデビューするきっかけとなったのは、当時福音館書店に勤めていた内田路子さんでした。のちに堀内さんの妻となる路子さんが、松居に堀内さんを紹介したのです。松居は堀内さんと話をし、そのずば抜けたセンスと絵本への強い関心に感じ入り、堀内さんの絵を一枚も見ずに絵本の制作を依頼したのです。堀内さんはその後、『ぐるんぱのようちえん』『たろうのおでかけ』『こすずめのぼうけん』『ロボット・カミイ』など、今なお愛される数々のロングセラー作品の絵を手がけました。

『ぐるんぱのようちえん』
『こすずめのぼうけん』
『ロボット・カミイ』
長新太
漫画から絵本へ ナンセンス絵本の名手
『おしゃべりなたまごやき』
『ごろごろ にゃーん』
長新太

人々の心をつかんでやまないユーモアあふれる作品を残した長新太(ちょうしんた)さん。漫画家として活動していた長さんが、絵本作家としても活動するようになった背景には、堀内誠一さんの存在がありました。松居が堀内さんに絵の仕事の依頼を持って行ったときのこと、原稿を読んだ堀内さんは、「あ、僕より適任者がいますよ」と言って、長さんを紹介したのです。長さんの作品を全く知らなかった松居ですが、本人と会って話す中で長さんのユニークなセンスを感じ取り、思い切って制作を依頼することにします。そうして『がんばれ、さるのさらんくん』(文・中川正文)で絵本作家としてデビューした長さんは、常識を打ち破るユニークな作品を次々と生み出しました。

『おしゃべりなたまごやき』
『ごろごろ にゃーん』
『ぴかくん めをまわす』
佐藤忠良
日本を代表する彫刻家が残したのは、生命溢れる絵
『おおきなかぶ』
『木』
佐藤忠良

日本を代表する彫刻家・佐藤忠良(さとうちゅうりょう)さんは、幼くして父を亡くし、生活が苦しい中で絵や彫刻を学んでいきます。その後も戦争でシベリア抑留を経験するなど、その人生は決して平坦なものではありませんでした。
戦後に彫刻家として成功を収めた佐藤さんは、仲間とともに新制作派協会(後に新制作協会)彫刻部を創設。新制作協会の展覧会に欠かさず足を運んでいた松居は、佐藤さんの彫刻が確かなデッサンに裏打ちされていることを感じ取っていました。雑誌「母の友」の挿絵がきっかけとなり、1962年に手がけたのが『おおきなかぶ』の絵でした。松居は依頼に際し、佐藤さんに「決しておもねらないで、写実風な絵を子どもたちに向けて描いてほしい」と言いました。あの躍動感に満ちた『おおきなかぶ』の絵は、こうして生まれることになったのです。

『おおきなかぶ』
『木』
『ゆきむすめ』
赤羽末吉
大陸の風を知る、昔話絵本の達人
『かさじぞう』
『スーホの白い馬』
赤羽末吉

東京の神田に生まれた赤羽末吉(あかばすえきち)さんは、幼いころから落語や映画に親しみ、絵を描くことも大好きでした。22歳で旧満州に渡り、徐々に日本画家として頭角を現し、活躍。中国大陸の広大な風景や文化を愛し、沢山のスケッチや写真を残しました。敗戦後、苦労の末に帰国した日本の、湿潤で墨絵のような風景に心を打たれ、雪を求めて豪雪地帯をスケッチして歩き回りました。そんなある日、茂田井武の描いた『セロひきのゴーシュ』(「こどものとも」1956年5月号)に出会います。深く感動し、松居をたずねたのが、赤羽さんが絵本作家になるきっかけとなりました。松居から「何か描きたいものがありますか」と問われた赤羽さんは、「雪が描きたい」と答えます。こうして、墨で雪を描いたデビュー作『かさじそう』が生まれました。

『かさじぞう』
『スーホの白い馬』
『だいくとおにろく』
松居直 のつながり
地域とのつながり

海外での出会いと刺激

海外での出会いと刺激

アメリカ
福音館の翻訳出版の原点
『100まんびきのねこ』
『いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう』
アメリカ

「こどものとも」を創刊したばかりの松居に、石井桃子さんが紹介した絵本が、1929年にアメリカで出版されたワンダ・ガアグの『100まんびきのねこ』でした。当時の日本では非常に珍しい横判絵本として1961年に出版、これが福音館書店の翻訳出版のスタートとなりました。

松居はアメリカの伝説的な絵本作家であるバージニア・リー・バートンの作品にも深い感銘を受けており、彼女の最初の作品『いたずらきかんしゃ ちゅう ちゅう』を、同じく1961年に翻訳出版します。

また、松居は当時たびたびアメリカを訪れており、ボルティモア市の公共図書館に勤務していた松岡享子さんを通して、アメリカの図書館の現場を学びました。松居は、当時のアメリカの図書館が、新たに出版される本を厳しく評価する様子を見て、出版が担う文化的側面を改めて意識するようになりました。

『100まんびきのねこ』
『いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう』
スイス
B・ヒューリマンと、グリム童話の名作との出会い
『ブレーメンのおんがくたい』
『おおかみと七ひきのこやぎ』
スイス

スイスは、松居にゆかりある人物や作品が多い国です。世界的な絵本コレクターで研究家のベッティーナ・ヒューリマンさんは、1961年に来日した際に「こどものとも」を読み、高く評価しました。このことは、松居の海外への視野を広げるきっかけとなり、ヒューリマンさんは、その後も海外の出版社や専門家を松居に紹介しました。

また、ハンス・フィッシャーが絵を手掛けた『ブレーメンのおんがくたい』やフェリクス・ホフマンが絵を手掛けた『おおかみと七ひきのこやぎ』といったグリム童話を原作とする絵本に松居は大きな魅力を感じ、翻訳出版の契約を結びました。これらの作品は、今なお、日本でロングセラー絵本として読み継がれています。

『ブレーメンのおんがくたい』
『おおかみと七ひきのこやぎ』
『ねむりひめ』
イギリス
大いなる刺激を受けた、英国出版社
『ピーターラビットのおなはし』
『チムとゆうかんなせんちょうさん』
イギリス

1962年、松居はドイツのフランクフルトで行われたブックフェアに参加します。国際的な展示イベントに初めて参加した松居は、その後も日本の代表団の一人として各国を訪れ見識を広めました。イギリスでは、のちに福音館書店から石井桃子さんの翻訳で出版されることとなる「ピーターラビットの絵本」シリーズを出版しているフレデリック・ウォーン社を訪ねています。

また、オックスフォード大学の出版部門として『チムとゆうかんなせんちょうさん』を出版していたオックスフォード・ユニバーシティ・プレスを訪れ、名編集者たちから大きな刺激を受けました。

『ピーターラビットのおなはし』
『チムとゆうかんなせんちょうさん』
オランダ
ディック・ブルーナとの出会い
『ちいさなうさこちゃん』
『ふしぎな たまご』
オランダ

1963年、松岡享子さんがアムステルダムの児童図書館を見学する際に同行した松居は、館長からある絵本を紹介されます。それが、今やだれもが知る「うさこちゃん(英語ではmiffy)」の生みの親、ディック・ブルーナさんの絵本でした。

松居はブルーナさんの絵本を見た瞬間に、くっきりとした輪郭線や読者と向き合う画面構成から、それが3歳以下の子どもたちに間違いなく受け入れられるものである、と直感しました。そして帰国後すぐにブルーナさんの会社に手紙を出し、日本で出版する手はずを整えました。ブルーナさんの絵本はのちに、『ねないこだれだ』で知られるせなけいこさんが絵本作家になるきっかけとなるなど、日本の赤ちゃん絵本の進展に多大なる影響を与えました。

『ちいさなうさこちゃん』
『ふしぎな たまご』
『くまのぼりす』
旧ソ連
神保町で出会った旧ソ連の名作の数々
『3びきのくま』
『てぶくろ』
旧ソ連

松居は、西欧諸国の絵本だけでなく、優れた絵描きや作家が多く活躍していた旧ソ連の絵本にも、大きな関心を抱いていました。今も東京の神田神保町にあるロシア絵本専門店「ナウカ」にたびたび通い、様々な作品をチェックしていました。『おおきなかぶ』の出版後、ウクライナの民話を描いた『てぶくろ』を出版しようと考えていた松居ですが、モスクワの出版社の製版フィルムがインドに貸し出されていたため、『3びきのくま』と『マーシャとくま』を先に出版しました。やがてインドから製版フィルムが届き、それをもとに『てぶくろ』が出版されました。内田莉莎子さんの名訳で今なお多くの子どもたちに愛されています。

『3びきのくま』
『てぶくろ』
『マーシャとくま』
中国
アジアの絵本に抱きつづけた情熱
『しんせつなともだち』
中国

子ども時代に戦争を体験した松居は、日本の子どもたちに近隣の国々のことを知ってほしいと願い、アジア各国のお話もできるだけ絵本に取り入れたいと考えていました。特に中国に大きな興味を持ち、中国の絵本を買い集めるなどチェックを欠かしませんでした。1957年、上海の伝統的な出版社である少年児童出版社の編集者でもあった厳大春(イェンターチュン)さんの文で『くりひろい』を、1965年には、今もハードカバー版で愛されている方軼羣(ファンイーチュン)さん創作の『しんせつなともだち』を、それぞれ「こどものとも」で取り上げました。

松居は歴史ある中国の文化への敬意を持ち続け、中国出版界の人々とも交流を絶やしませんでした。

『しんせつなともだち』