作者のことば

“子どものための物語”について|梨木香歩さんインタビュー

『西の魔女が死んだ』『裏庭』『家守綺譚』などの小説作品で、人間が持つ深い精神性と向かい合ってきた作家の梨木香歩さん。2015年に児童文学作品シリーズ第1作『岸辺のヤービ』を生み出した梨木さんは、物語の主人公ヤービのイメージが浮かんでから、書きあげるまで十年の月日が必要だったと言います。その時間は児童書、子どものための物語と真に向かい会う「覚悟」を決めるためにも必要な時間だったとか。梨木さんにとって児童書とは? 第1作刊行後に雑誌「母の友」(2016年3月号)掲載のために行われたインタビューを再掲し、お届けします。

物語のとらえかたが変わった

十年ほど前、私は物語を、個人が生きていくために必要なものととらえていたように思います。その考えは基本的には変わりませんが、今はそれに加えて物語は社会全体にとっても必要不可欠なものという思いが強くなってきました。

最近、重大な事件が起きたとき、世間から忘れさられるのが早過ぎるような気がします。昨年一月には後藤健二さんがISに殺される事件があった。夏には大阪で寝屋川市の中学生たちが無残な姿で見つかった。ついこの間の出来事なのに、なんだか、それらが遠い昔のように感じられてしまう。こんなふうな流され方をしていいのかしら、と妙な焦りを感じます。

寝屋川の事件では、まだあどけない中学生たちが事件前、夜通し街を歩き回っていた。そういうことが、それほど突飛ではない日常に私たちは生きている。けれど、子どもがあんな目にあって当然という家庭はありません。今、大人が子どもに必要な関心を持つことができなくなってきているような気がして、そのことがとても気がかりです。

こうした変化は、社会全体の時間感覚が速くなってきているせいなのだろうか。それで立ち止まって考える時間が奪われてしまったのだろうか。あるいは情報が多すぎて、ひとつの問題に対する意識を持続させることができないのだろうか。

しっかりと関心を持続させ、時間をかけて、向かい合う。そうでないと生き物は育たない。植物だって、動物だってそう。今、人間の社会から「はぐくむ力」が急速に落ちてきているのではないか。そして他者への無関心が拡大しているんじゃないか。そんな気がして不安です。

「はぐくむ力」と物語

昔の人たちはどうやってはぐくむ力を涵養していたのか。私は、物語の力が大きかったのではないかと思います。親から子へ、祖父母から孫へ語り伝えられる物語、書き手の深奥から生まれてきた物語。物語は「社会の底力」みたいなものを生み出すことができると信じています。

それは物語を用いて何か社会的なメッセージを発するということではありません。物語を読むことで各自が自分自身を整える――自分の奥底にいる「小さな自分」に気づく。一人一人がそうすることで、社会全体が少しずつ変わっていくのではないか。自身の変化が浸透圧のような不思議な作用で少しずつ社会に影響をおよぼしていくのではないか。

私は人間というのは、マトリョーシカの人形のようなものだと思っています。歳を重ね、いろいろな経験を積むにつれて新しい殻を身につけていく。二十歳の自分、十五歳の自分、十歳の自分。そして、その一番奥には核となる自分、頼りない、無力な、心細い、幼い子どもである自分がいる。

そういう自分に手を差し伸べられるのは自分しかいないと思っています。危機的な状況に陥ったとき、なぜこうなってしまったのか、知っているのは親でも友人でもない。そのときどき、そういう選択をして来ざるをえなかった、その連続として今があるということを知っているのは自分しかいないのです。

適切にあつかってもらえず、おびえている自分。育ちそこなってしまった自分。その自分に向かって、時空を超えて、大人である自分が「大丈夫、私がついているよ」と言ってあげること。私も、どうしようもない状況に陥ったとき、自分の名を呼んで、「私がついているよ」と自分自身を抱きかかえるようにしてささやきます。混乱しているとき、これがけっこうきくんですよ。なんともいえないあたたかい気持ちが訪れる。

内側からの光

これは自分の中に自ら光を点そうとする行いだといえるかもしれません。そして、これができたら、その光はきっと自分の中だけでなくて、外の世界も照らしていくのではないかと思うのです。私の中には三十年ほど前、イギリスで見たイメージが残っています。クリスマスに知人が教会へつれていってくれました。夜道を歩いて向かっていくと、真っ暗な野原の中で教会が内側から光っているのが見えました。ステンドグラスを通して内側の光がこちら側に押し寄せてくる。それまでステンドグラスは、教会に入ってきた信者に向かって外の光、神の威光を届けて荘厳さを演出する仕掛けなのかなと思っていたのですが、そうか、外側の世界がまっくらやみのときは、内側から光るんだ、と思いました。その光景に私は強くひきつけられました。内からの光。それはキリスト教という一つの宗教を超えた、人間の精神のどこか深い部分とかかわっていることなのではないかと思います。自分の中に光を点す。自分の中の幼い子どもに声をかけ、温かい気持ちを味わうと、不思議なことに、自分の外にいる人たちにも声をかけやすくなる。道で困惑している子どもを見かけたら「どうしたの?」と自然に声をかけてあげることができるように。内側の世界と外側の世界が連動してくるのです。

児童書の力

自分の中に光を点すためには、まず、自分の中の子どもを自覚することが大切です。そのとき、物語、特に児童書がおおいに役だってくれます。かつての自分の気持ちを思いだしやすくなる。そのことがマトリョーシカの、それぞれの層を隔てる固い固い殻のようなものをやわらかくしていく。すると底のほうまで、なにか水がしみわたるような、養分がいくような、活性化していくような、そういう状況が生まれやすくなると思うのです。そして私が好きだった児童書、こうであってほしいと思う児童書には人生への基本的な安心感、生きることへの積極的な肯定があります。それが自分の中の子どもに「大丈夫、安心して」と言ってあげる力をくれる。

児童書は私にとって「ユートピアに一番近い場所」を創りうる、まるで聖地のような存在です。だからこそ――自らその物語を書くことには逡巡が伴います。

子どものための物語には自分まるごとで向かい合わないとうまくいかないと思っています。他の本であれば、あることを書きたいと思ったならば、そのことに適合するマトリョーシカのある層だけを用いて書くこともできる。しかし子どもの本の場合は、全ての層の自分をまるごとひっくるめて対峙しないと、だめなんです。子どもは本当にこわい。ごまかしやうそはほとんど通用しない。私が言うユートピアは「浮き世離れした世界」ではなく、現実世界の難しさもしっかりと保ち、それでも安心感のある世界です。

先ほど「ユートピアに一番近い」という言い方をしました。なぜならユートピアは他から与えられるものではなくて、自分で作り上げるもの。私は物語世界を作りますが、それだけではまだ完成ではなくて、読者の皆さんが読んでくれて、それぞれに醸成し、自分の中でユートピアを作って、はじめて完成するものだと思うんです。そのために『岸辺のヤービ』を書くにあたっては、それがしっかりとした足がかりになるように心がけました。自然科学的な確実さのことです。

書く覚悟

児童書に携わる書き手や送り手には、意識するにせよしないにせよ、ある種の使命感がある。送り手は出版社のことです。以前、岩波書店が戦後すぐの社会が荒廃していた頃に発表した文章を読んで胸を打たれました。本当に子どもにいい本を読んでもらいたいという情熱にあふれていた。児童書は、人間の一番大事な基礎にかかわる仕事です。
 
私にそういう力があるかどうか。書く覚悟があるだろうか。今だって「ある」と断言することにはためらいがありますが、十年前よりは今のほうがあるかもしれません。『岸辺のヤービ』の前に『海うそ』という小説で「圧倒的な喪失感」と向かい合ったことも大きな体験でした。私は何か大切な人や経験をなくす、失うということにおそれがあります。それをテーマに小説を書いてきたところもある。それは児童書の「絶対的な安心感」とは違うもの。しかし『海うそ』で徹底的にそのことと対峙した結果、次に進めるような気がしてきたのです。

ただ、今だってもちろんおそれはあります。そして『ヤービ』の中ではそのことを正直に書きました。なぜって、文章を書いているときに無意識にでも「ちょっといいかっこうしてみよう」というモードになると、すぐに私の中の子どもが「本当にそうなの?」と問いかけてくる。自分の中にうそがあったり、ごまかしがあったりすると、書き続けることはできませんでした。だから『岸辺のヤービ』の中では親しい人を失うかもしれない不安も「本当のこと」だから書いています。環境問題についてもごまかさずに書いたつもりです。

でも、悩みや不安があっても、書き手の側が自分の軸をしっかりと持って、そこが安定していれば、それを出してもいいのではないかと思うようになりました。反対に、その軸なしに、ことさらに読者を不安にするだけだとしたら、それはやっぱり、よくないのではないか。

児童書で一番おそろしいのは書き手の軸がどれだけしっかりしているか、自分自身が問われるところだと思います。そういう点で、私自身がこの物語の主人公ヤービに助けられました。文章を書き進める上で迷ったとき「この子がいる。ヤービががんばっている。だから、きっと大丈夫」。そんな気持ちになれたのです。私自身の軸をヤービが支えてくれたように思っています。

『岸辺のヤービ』は子どもたちのために書いたつもりです。それにはもちろん、大人たちの中にいる「子ども」たちも含まれています。だから大人の方にもぜひ、という気持ちが強くあります。仕事や生活に追われている中、児童書なんて、と思われるかもしれません。でも、子どものための物語というのは、実は人間存在のための物語でもあるわけです。私たち大人は、みんな、幼い子どもを内側に抱えている。本当に最近はそう思います。

(「母の友」2016年3月号記事を再掲しています)

2025.02.04

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