絵本が生まれる場所 ー編集者のことばー

再び取った絵筆にこめた思い『ひよこさん』

子どもたちが日々楽しんでいる絵本。その一冊の絵本は、どこでどんなふうに生まれたのでしょう? 人気のあの絵本について、作者の一番近くで見てきた元担当編集者が語る特別連載「絵本が生まれる場所」。最終回は、林明子さんによる赤ちゃん絵本『ひよこさん』です。

再び取った絵筆にこめた思い『ひよこさん』

井上博子(元福音館書店編集者)

月刊絵本「こどものとも0.1.2.」は、言葉と絵で赤ちゃんに語りかける温かく豊かな絵本を届けたいという思いのもと、1995年4月に創刊されました。

その創刊号が林明子さんの『でてこい でてこい』(現在「0.1.2.えほん」として刊行中)でした。きれいな色の中からさまざまな動物たちが現れる、切り絵の絵本です。刊行に際して、林さんは折り込みふろくの「作者のことば」に、「私は、色紙が大好きです。ですから初めてのお客様へのごちそうに、色紙で絵本を作りました。(中略)この切り抜き遊びのごちそうが、気に入ってもらえるかどうかちょっとドキドキしています。もしも、何度も繰り返し読んでくれたら、赤ちゃんはきっと、形のない色のなかにも、生き物の気配を感じるようになってくれることでしょう。」と、書いていらっしゃいます。そして、この絵本は林さんの願い通り、刊行から25年以上たった今も赤ちゃんとお母さん、お父さんに愛され、読み継がれています。


『でてこい でてこい』の刊行後、林さんは持病のリウマチもあり、長い間、絵本の仕事をされていませんでした。

林さんが再び絵筆を取られるきっかけとなったのは、征矢清さんに「こどものとも0.1.2.」のための文章を依頼したことでした。征矢さんは作家として多くの絵本の文章を手がけていますが、福音館書店の元編集者で、「こどものとも0.1.2.」創刊時の編集メンバーでした。さらに『でてこい でてこい』の担当編集者であり、林明子さんのお連れ合いでもありました。

当時、征矢さんは癌の手術をされた後の小康状態だったのですが、2007年2月に「ひよこさん」と題された原稿が、ご自身の手になるユーモラスで愛らしいスケッチといっしょに送られてきました。原稿についてのやり取りをお電話でしているときに、征矢さんから「絵は彼女(林さん)が描くと言っているから」とうかがいました。編集部全員、「わあーっ」と歓声をあげました。皆が林さんの絵本を心から待ち望んでいたのです。

当の林さんは、自分が絵を描くことで征矢さんの気持ちが前を向き、免疫力の向上につながるかもしれないとお考えだったそうです。しかし、征矢さんは2008年の冬に亡くなられました。

闘病中、献身的な看病を続けられた林さんが、絵の制作にとりかかったのは2010年のことで、最初のラフスケッチをいただいたのは、2011年2月でした。そこには、「ひよこさん」の描き方について、「写実的に描くのではなくて、征矢さんが描いた愉快な丸いひよこの形をもとに描こうと思っています」という言葉が添えられていました。


その後、2回目のラフスケッチを10月にいただきました。このとき林さんから「水彩絵の具で描くことにしました」と伝えられました。実は、林さんと征矢さんは、最初、『ひよこさん』の絵は、『くつくつあるけ』(福音館あかちゃんの絵本シリーズ)と同じように、色指定で描こうと考えていらっしゃいました。色指定ですと、輪郭線だけを描いて「この部分はこの色に」と指定し、印刷所で色をつける作業をすることになります。『くつくつあるけ』では、色指定がとてもうまくいったので、仕上がりもきっと大丈夫だろうし、林さんの体への負担も少なくてすむということで、おふたりで相談して決められたのです。

それを水彩絵の具で描くことに決められた理由は、この絵本を見る赤ちゃんにひよこの羽毛のふわふわの感じをどうしても伝えたいという思いでした。色指定ではそれは表現できません。

赤ちゃんが思わず触ってみたくなるようなふわふわの羽毛を描くことは並大抵のことではありません。ひよこさんのからだの黄色を水彩絵の具で塗った後に、ごく細い筆で点描の要領で周りの背景の色を塗っていく。片手にはティッシュペーパーを持ち、常に筆先を整えたり、水分を調節しながら描いていく、本当に根気のいる作業です。リウマチのため、長時間連続しての作業はできないので、1枚描くのに1か月かかることもあったそうです。


林さんは、この絵本のもうひとつの主役は、夕方から夜、そして夜が明けるまでの空の色の変化だとおっしゃっています。軽井沢のご自宅の2階のアトリエの窓からは、美しい夕暮れの空が見えます。その空の色の変化に魅了された林さんは、赤ちゃんにもその感動を伝えたいと思われたのです。空の色の微妙な色合いを描くために、ひよこさんの羽毛を描くときと同じように、点描で空間を一筆一筆埋めていかれたそうです。

原画制作の締め切りの1か月ほど前、一応全画面が描けたから見に来てほしいとご連絡があり、アトリエにうかがうと、全場面の絵がソファーの上に並べてありました。素晴らしい絵で、感動していると、この場面とこの場面の空の色の変化が不自然で気になる。まだ締め切りまで少しあるので、この1枚を描き直したいとおっしゃるのです。透明水彩で描いていらっしゃるので、修正はできません。幼い読者のために決して妥協しない林さんの誠実さに頭が下がる思いがしました。

こうして、『ひよこさん』は、「こどものとも0.1.2.」2013年3月号として刊行されました(現在「0.1.2.えほん」として刊行中)。征矢清さんと林明子さんの幼い読者への強く温かい思いのこもったこの美しい絵本が末永く読み継がれることを心から願っています。



井上博子(いのうえひろこ)。元福音館書店編集者。1972年福音館書店入社。主な担当作品に『くまさんおでかけ』『ぐりとぐらとすみれちゃん』『ひよこさん』『もりのひなまつり』『トマトさん』『ぐぎがさんとふへほさん』『こぶたのバーナビー』『パンツのはきかた』『いしゃがよい』や、「やなぎむらのおはなし」「きつねのきっこ」「ねぼすけスーザ」シリーズなど。
 
元担当編集者が語る「絵本が生まれる場所」は、今回で最終回です。
お読みいただき、ありがとうございました。


第1回「「手遊びうた」から生まれた絵本『くまさんおでかけ』」はこちらから。
 

第2回「輝きつづける楽しい時間『ぐりとぐらとすみれちゃん』」はこちらから。

2021.11.30

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