北京の空の下で|『だるまちゃんとてんぐちゃん』加古里子 さく・え
作家の小風さちさんが、絵本作家たちとのエピソードをまじえながら綴った、絵本の魅力をじっくり味わえるエッセイ。第2回は、加古里子さんの『だるまちゃんとてんぐちゃん』です。
北京の空の下で
『だるまちゃんとてんぐちゃん』加古里子 さく・え
文章を書く仕事を始めて、27年が経った。主に絵本と童話の文章である。ところで、私の父は長年絵本の編集者をしていたが、私達はつい最近まで絵本や童話について、つまり仕事について、ほとんど会話を交わしたことがなかった。別に喧嘩をしているわけではない。テレビを見たりおまんじゅうを食べたりしている父にむかい、文章だの絵だのと疑問質問を切り出すのは、いかにも場違いで居心地の悪い感じがしたので黙っていると、そのまま27年が経ったのだ。だが私にはここ数年、密かに心に抱える疑問があった。
折しも、昨年の9月に北京に出かけることになった。『だるまちゃんとてんぐちゃん』の著者であられる加古里子先生ご夫妻と娘さんの万里さん、福音館書店の編集者ご夫妻と私の両親、それに私で、万里さんと私はそれぞれに多忙な父に付き添う形の旅だった。
北京では昨年出版された『万里の長城』(加古里子文・絵 常嘉煌絵)を中国の出版社や子どもの本の関係者にお披露目し、また日中友好の様々な催しや講演会がめまぐるしく続いた。私はなるたけ大人しく日々のスケジュールに従っていたが、ある日、宿にしていた北京飯店のロビーを敬愛する加古先生が横切って行かれるのを見て、はたと、自分の長疑問に解答を得るべく大きなチャンスに気づいた。私はそっと狙いを定めた。チャンスは、町の散策を楽しんだ帰路にやってきた。「あの…、加古先生…」私は意を決した。
絵本を作るときに、絵と文章が同じ者の場合と違う場合がある。違う場合、私は文章を書く方なのでわからないのだが、画家はどんなことに苦慮するものなのか。また、作家は画家に対して、どんな心得でいればいいのか。そんなことを夢中で伺った。
すると先生は即座に、とても明解に答えられたので、私はびっくりしてしまった。後で知ったのだが、旅の終盤に先生がなされた北京の中央美術院(日本の芸大にあたる)でのご講義のテーマは"子どものための美術に大切なこと"で、先生はそこで絵本の絵の役割と文章の役割についてお話をなさることになっていたのだ。そうとわかれば、なおさらのこと。再度、私は中国の学生達に混じってそのご講義を拝聴し、宝物を拾い集める心地で走り書きした。先生はこうおっしゃった。
──絵本の絵は文章と共存するのですから、これがタブロー画との違いなのですが、画家は作家の目的、考え、伝えたいものを充分にくみとって、同意に至ることが必要なのです。
なぜなら、子どもの立場からすると一番印象に残るのは絵ですから、絵描きは作家と充分意志の疎通を図って、抽象的なことより具体的にどういう絵本を作るかよく話し合う必要があるのです。そうして文章と絵が互いに助け合い、呼応し合って共に内容を子どもに伝えることができると、子どもは一つ一つの場面を言葉でも目でも確かめて、安心して次のページに行くことができるのです。──
絵本の絵と、一枚の絵画として鑑賞するタブロー画は、どこがなぜ違うのか。絵本を作る場合、作家と画家が力を合わせる一番の目的は何なのか。中国でも屈指の筆達者な学生達に、加古先生は静かに話をされた。
帰国すると折しも「かこさとしの世界」展が鎌倉文学館で行われていた。旅の仲間がまたまた集まり、文学館へと繰り出すと、ガラスのむこうに『だるまちゃんとてんぐちゃん』の原画があった。3場面めの絵の前で、私は呆然とした。横長の紙の右に子どもの天狗、左に達磨、それだけ。だがそこに絵本の言葉が付くと、ものの見事に世界が動き出し、次のページをめくりたくなる。合点がいった。加古先生がおっしゃったことは、これなのだ。
旅も終わった。絵本を作るときに画家と作家が互いに苦心すべきは、まず、世にも上質な目と耳を持つ小さい読者に、何をどう伝えるかだったのだなあと、嬉しそうに月餅を食べる父を横目に、ひとり頷いた次第である。
小風さち(こかぜ・さち)
1955年東京に生まれる。1977年から87年まで、イギリスのロンドン郊外に暮らした。『わにわにのおふろ』などの「わにわに」シリーズ、『とべ!ちいさいプロペラき』『あむ』『ぶーぶーぶー』『はしれ、きかんしゃ ちからあし』『おじいちゃんのSLアルバム』など多数の絵本、童話作品を手がける。
2017.06.14