【第9回】長新太さん|(3)もっとユーモアを!
もっとユーモアを!
長谷川 前回、かわいい絵本というのは、みんなに好かれやすいけれど、その質が問題じゃないかという話になりましたが……。
長 かわいいとか、きれいとかいうのは、表面的なところでやろうと思えば、簡単にできるんじゃないかって気がしますね。だけど、最大公約数的に、みんなに好かれるというものは、どうしても没個性的になりがちだから。
長谷川 確かにそういう絵ばかり見ていると、何も考えなくなる。
長 それは、生理的に楽に入れるものだけだと、どうしても惰性みたいになる。今の若いお母さんたちというのは、漫画世代で、独身のときは結構過激な漫画を読んだりしていた人でも、結婚して子どもができると、ころっと保守的に変わってしまったりする。まあ、そうじゃなきゃならないっていう面も、多分、あるのかもしれないけれど。
長谷川 子どもに向かい合ったときに、おとなにさせられてしまう、そのときのおとなになるなり方みたいなものに落とし穴があるというか……。
長 非常によくないまじめになってしまって、子どもには、美しい、かわいらしい絵本だけを与えたいとか、そういうふうになっちゃう。
長谷川 そういう絵本の、質の良い悪いということを説明するのは、とてもむずかしい。
長さんのおかきになった『にゅーっするするする』という絵本が、子どもたちに好かれているという話を、第1回目のときにしましたけれど、あの本の最後は、いわゆるハッピーエンドじゃありませんよね。普通、子どもの本というのは、最後に安心させなきゃいけないと、よく言われてますでしょう。だけど、長さんの本というのは、あるこわさを秘めて終わるのが、結構あるんじゃないですか。
長 だから、正当には認めてもらえないっていう感じがあるんでしょうね。ぼくは表通りじゃなくて、横丁という存在なんですよね。ぼくは裏通りや横丁が好きなんだけど、世間では、表通りしか認めないということがあるでしょう。だからぼくは、前にも言ったように、いばらの道を歩いてきた、いばらの横長新太っていうんだ。(笑)ハッピーエンドで、それで終わりっていう形は、あまり好きじゃないのね。終わったあとでも、なんか余韻みたいに、ずーっと残ってて、読んだ人の中で、それからまた、自分のお話ができちゃうというぐらいに続く方がいいんじゃないかっていう気がするし。
漫画家かイラストレーターか
長谷川 ご自分のことを「漫画家」と称していらっしゃるようですね?
長 最近は、そうでもないの。肩書きを書くということが、よくあるんだけれど、イラストレーターとか、絵本作家とか、画家とか、エッセイストなんて書かれる場合もあるしね、いろいろなんですよ。ひとつに決められるよりは、そのほうがかえっておもしろいんじゃないかなんて、このごろ思いだした。漫画家の仲間の人たちから言わせると、おまえは漫画家じゃない。(笑)じゃ、なんですかって聞くと、イラストレーターだって言うの。それで、イラストレーターのところへ行くと、長さんはイラストレーターじゃないですよって言うの。(笑)じゃ、なんだって言うと、漫画家ですよって。まあ、そうやって世間を混乱させるのもいいんじゃないかな。世間というのは、すぐに決めたがるじゃない。決めないと、心配なのね。
長谷川 大いに心配させると。(笑)
好きな絵
日本の漫画とか絵本では、どんな絵がお好きなんですか。
長 ぼくは、井上洋介さんとか、横山泰三さんの絵ね。久里洋二さんもそうだけど、一枚漫画を目ざしていた人たち。一枚漫画の需要が日本では無いから、結局、イラストレーションに行ったりしちゃう。絵本では、井上さん、片山健さんとか、スズキコージさんとか。まあ、好きっていうか、同類というような感じがするわけ。
長谷川 その方たちの絵本は、保育者の人たちのあいだでも、好き嫌いの差があって、わかる人とわからない人に、はっきり分かれるようですね。
長 それはそうですよ。個性が強けりゃ、当然そうなる。ぼくは、それはそれでいいんじゃないかと思いますけど。だけど一方、現実的には、おとな経由で絵本は子どもに行くわけだから、どうしても、おとなの感覚がしっかりしてくれないと、いい絵本が届かないってことになってる。松居さんなんかが昔から苦労しているのは、その点なんじゃないかと思いますけどね。まず、おとなを教育しなけりゃならないんだから、大変ですよ。ぼくは、優れたおとなというのは、子どものいい部分を頭のどこかに残している人間じゃないかと思ってるんですけど、そういう人たちっていうのは、いい意味で子どもっぽい面というのがありますよ。世間から見ると、変わってるなと言われる人が多い。
長谷川 そうですね。おとなの常識的な生活のパターンに乗りきれないところを持っていて……。でも、子どもも、自由に絵本を楽しんでいても、大きくなっていくにつれ、教育されて、だんだん不自由になってくる。
長 普通のおとなになるようにという教育でね。
ナンセンスなものを求める子もいる
長谷川 小学校高学年位になってくると、変なセンチメンタリズムみたいなものが入ってきてしまって……。リリシズムの高度なものと、センチメンタリズムとは全然違うという気がするんですけれど。
長 センチメンタリズムには、感動するっていう要素が入り込みやすいんですよね。よく「○○物語」なんて、動物の映画なんか、毎年あるじゃない。ああいうので泣かせるとかね。ナンセンスにだって感動するということがあるはずなのに、必ず泣かせなきゃだめみたいな作り方をしているでしょう。
長谷川 そうですね。乾いたユーモアみたいなものは、日本では通じにくいですね。ユーモアも、ある種の訓練みたいなところがありますから。
長 そうですよ。知的な作業ですよね。シャレなんかでも、質の高いシャレというのは、非常に知的にひねってある。ところが、今テレビでやっているのは、ダジャレというか、見ている人間の殆どが、すぐにわかるようなものでしょ。まあ、テレビというのは、そういうものなのかもしれないけど。日本の芝居なんかでも、喜劇というのは、一段低く見られているって、飯沢匡さんとか、井上ひさしさんなんかも言ってますよね。でも、読者から手紙をもらったりするけど、中には、ナンセンスなものとか、超現実的なものを求めている子どももいてね。ああ、こういう子も中にはいるんだなって、ちょっと救われますね。
※()がない作品はすべて福音館書店より刊行。
※対談の記録は、掲載当時のものをそのまま再録しています。
長 新太(ちょうしんた)1927年〜2005年
東京生まれ。絵本に『おなら』『わたし』『おしゃべりなたまごやき』『ぞうのたまごのたまごやき』『ごろごろにゃーん』など。漫画に『なんじゃもんじゃ博士 ハラハラ編』『なんじゃもんじゃ博士 ドキドキ編』など。挿絵に『美乃里の夏』『それほんとう?』(以上、福音館書店)など多数。
インタビューを終えて-長谷川摂子
長さんの絵本をよんでいると日常生活のくしゃくしゃした思いが空の彼方にすっとんでいき、大きな伸びをしたようないい気分になります。でも、いつもあんな途方もないことを考えている人がこの東京で普通の暮らしをしていらっしゃるかと思うとそれも不思議。どんな方かしら、と胸が高鳴りました。お会いした長さんはやたらめったら母さんをおにぎりにしたり、動物をキャベツにするような方ではなく、ごく礼儀正しい紳士でした。現実に対してはぴりりと厳しく、考えることがもつ豊かさを正面から語ってくれました。四角四面を押しつける大人社会と、ものを考えない文化を淡々と批判する長さんは、私には知性の人と見えました。確かに、批判精神とユーモアは背中合せだったのです。でも、このもの静かな知的な紳士があの絵本を作っていらっしゃるかと思うと、やっぱり……むむむ!?
◯ 長谷川さんが対談した絵本作家たち
【第1回】筒井頼子さん
【第2回】堀内誠一さん
【第3回】片山 健さん
【第4回】林 明子さん
【第5回】中川李枝子さん・山脇百合子さん
【第6回】スズキコージさん
【第7回】岸田衿子さん
【第8回】いまきみちさん・西村繁男さん
【第9回】長 新太さん
【第10回】松岡享子さん
【第11回】佐々木マキさん
【第12回】瀬川康男さん
2017.04.09