【第3回】片山健さん|(1)防空壕の中で幸せだった……
1986年4月から3年にわたって「こどものとも折り込み付録」にて連載された、故・長谷川摂子さんと14名の絵本作家の対話の記録を、再録してお届けします。第3回は、『もりのおばけ』『ゆうちゃんのみきさーしゃ』『おなかのすくさんぽ』、「コッコさん」シリーズなどで、知られる片山健さんです。
コッコさん
長谷川 片山さん『コッコさんのともだち』の中に出てくる子どもたちの表情がすごくリアルで、このアミちゃんなんか、頭の形に特長があって、うちの近所の子にそっくり。この子たちを見ていると、いつも実在の子どもたちと通じ合うものを感じるんですけど。
片山 ここに出てくるのは、ほとんど娘の小都子の行っていた保育園の子どもたちなんです。このアミちゃん、ほんとはもっと美人なんです。一所懸命本人に似せようとして描いたんですけど。保育園の人たちは、この子は何ちゃんってわかるのがかなりいるんだけど、うまく描けなくてね、わかんないのがある。それを「これはうちの子ですか?」と聞かれたりして、よせばいいのに「ええ」なんて言って、また他の人に「うちの子ですか?」って言われて、どうしようかなあ、と思ったり。(笑)
長谷川 『おやすみなさいコッコさん』を見たとき、あのしっとりした感じ、コッコさんのほやほやとしたあったかさに、「わあいいな」って溜息ついちゃったんです。
片山 自分であれが一番好きなんです。最初に描いたのよりいいのができないなーって、なんだか情けなくてね。
長谷川 子どもたちはあの本が大好きで、最後の「コッコはねむらないもん」「コッコはねむらないもん」のところが快感でしょうがないみたいですよ。
片山 そこのところはことばが覚えやすいのか、保育園なんかで、子どもたちが声に出して言ってますね。
長谷川 コッコさんの「おててもねむったよ」っていうのも、子どもはよくわかってるみたい。あの絵を見て、ほんとに、おてても眠ってるって納得した顔をしてます。
コッコさんの絵は水彩で、しっとりと水気のある“水”の感じがするんですが、一方で、『おなかのすくさんぽ』や、『どんどんどんどん』(文研出版)の男の子には、大地と一体となるような力強い生命力を感じます。両方とも片山さんだと思うのですが……。
片山 コッコさんの方にはね、無防備だった自分の怯えなんかも投影されていて……それでお父さんとしてはどうしても、娘はやさしーくやさしーく包んであげたくなって……。
男の子の方は、息子の中藏がモデルなんですが、泥ん中で暴れまわったりどんどん行っちゃったり、そこにどうかお父さんをお前と一緒に地平線の果てへ連れてってくれ、森羅万象とひとつにしてくれという思いがある……。
泥あそび
長谷川 片山さんの描かれる泥まみれの男の子、たいへん印象的ですが、小さいころ泥遊びはなさいましたか?
片山 ええ、よくやりました。夢中になってやってて、ふと気がつくと、道行くのは利口そうな子ばかりで、はっとして池から上がったこともありましたね、最後は中一の時。
長谷川 片山さんが『おなかのすくさんぽ』の付録に書かれていた「“キッタネー”は大昔、豊饒の泥の入江を這いずりまわり眠っていた自分たちの遠い歓喜の叫び」というの、とてもよくわかる気がします。
躊躇するか、すぐ入ってくるかの差はあっても、子どもはどんな子でも泥んこ遊びは好きで、何か本能的なものを感じますね。
片山 泥んこといえば、子どものころ、多摩川へ行って、ぬるぬるの穴に手をつっこんで、ザリガニとったりしたけど、今はだめですね。中に何がいるかわかんないぬるぬるしたところに手を入れるっていうの、絶対できない。怖さと気持ち悪さが先立っちゃって。
長谷川 この前、どろんこ保育をしている野中保育園へ行って、子どもと一緒に腰まで泥ん中へ入ったんですが、とってもじゃない、もう集中できないのね。もちろん恥ずかしさもあるけど、泥遊びというのが、今の自分にははるか異次元のことのような気がして。だから、自分がそういうことをしたことがすごく恥ずかしかった。
片山 子どもは際限なくやってますからね。適当に切り上げようというのがない。
長谷川 大人と子どもとでは時間の流れ方が違うと思うんです。どのへんからどうなるんでしょう。子どもと同じようにはもはやなれない。
片山 そうなんだけど、うんと小さいころの満ち足りた時の記憶というのは、大人になっても生きるささやかな支えになりますね。
小さいころ
長谷川 片山さんの小さいころの記憶というのは?
片山 ぼくは、ずうっと、自分には幸福な幼児期がなかったような気がしていたんですね。自分を醜い子どもだって思っていた。ブタって綽名だったし。だから絵もね、少年が性で苦しんでるとか、そんな絵ばかり描いて。
ところが、子どもができたころからか、戦争中、五歳ぐらいまでの記憶の断片がバーッと出てきて、それが実に至福の記憶なんですね。自分にもこんな幸せな大事にされた時があったんだって気づいたらすごく楽に肯定的にもなれてね。まあ、空襲なんかがそんなにないところにいたからそんなこと言えるんだろうけど。
部屋にぽつんと一人でいると、弟かなんかもいたかもしれないんだけど、だれかがパッと灯りを消す。そしてたぶん母親だと思うんだけど、闇に包まれた中で、だれかが頭の上にぼあーっとズキンをかぶせてくれる。それから近所のおばさんたちと防空濠に入ってね、和気あいあい赤土と女性たちに二重に庇護されてたわけですね。その赤土の壁に入口付近の菊のシルエットが探照灯の青い光でグルリグルリと回り燈籠みたいにきれいでね。
赤土の穴の中にじーっとしているのはうれしかったですね。それに闇の中でだれかがあんなふうにズキンをかぶせてくれた、あの記憶だけでもまだまだだいぶ生きられる……。
長谷川 うわー、甘美な思い出。それに穴の中っていうのが、たまらなくなつかしいですね。子どもって、狭いところに入りこんで死んだふりしたりするの好きで、見ていると何か根源的なものにひきいられるような不思議な気分になってきて……。まだ歩けない赤ちゃんのまねをして「アー、アー」なんていうのも好き。
片山 ぼくは、あれ、いやだなあ。友だちが来て、小都子がさっさと赤ちゃん役になっちゃうんだけど、あれ見てると瞬間的にイライラしちゃってね。他の役やってくんないかなーって思っちゃう。(笑)首つながれてる犬の役ばかりやってるのもいたけど。
長谷川 子どもは、動物や赤ちゃんだから役として格が低いとか、そういうのはなくて、むしろ動物や、それに近い赤ちゃんの方がおもしろいのかもしれない。
片山 子どもたちが遊ぶのを見てたら、ちょっと頭のいい子が、ロボットを動かす博士みたいな役になって、「なんとか号、なんとかせよ」なんて言う。ロボットになっちゃう子は膝ついて、ロボットの格好して、アアアアとかばかりやってる。(笑) 見てると、子どもの中での上下の関係みたいのを感じて、つい横から何か言いたくなっちゃうんだけどね。子どもに聞いたらロボットの役はおもしろいんだそうですね。
長谷川 それはそう。人間の役なんてぜんぜんおもしろくない。人間以外のものに変身する方が演劇的要素から言ってもおもしろいわよ。もっと潜在的な感じがあって……。
片山 こんどから、イライラしないように気をつけるかな。(笑)
2017.04.03