【対談】谷川俊太郎×太田大八『とき』をめぐって
谷川俊太郎さんの絵本をテーマにした展覧会「谷川俊太郎 絵本★百貨展」(2023.4.12-7.9)が、東京・立川のPLAY! MUSEUMで開催されることを記念し、このたび、『とき』(月刊絵本「かがくのとも」1973年6月号)を限定復刊いたしました。
『とき』は、1950年代から絵本作家、児童書の挿絵画家として活躍した太田大八さん(1918-2016)と共作した、大昔から今につながる時間を感じる絵本です。刊行当時、谷川さんと太田さんが、作品のねらいや制作の裏側を「かがくのとも」折り込み付録誌上で語り合っていました。その対談の様子を再録してお届けいたします。ぜひ、作品とあわせてお楽しみください。
時間の2要素
編集部 はじめに、時間に関する絵本を作ろうとなさったきっかけをお聞きしたいのですが。
谷川 編集部の方からある程度自由にテーマを決めていいと言われたとき、時間というのはとてもむずかしそうだったのですが、ずい分前からやってみたいと思っていたので、成算はなかったんだけれども、時間というテーマをえらんだのです。
編集部 編集部の方では、変にテーマを規定するよりもお任せしてしまった方がという考えが基本にあるわけです。ただ、時間と聞いたときには、いままであまり日本の子どもの本で扱かっていないので、大変イメージしにくかった面はあります。
谷川 ぼくも全く同じで、時間というテーマは絶対やりがいがあるんだということは、なんとなくわかっているんだけれど、時間をどうとらえるかということは考えれば考えるほどむずかしくなってくるんですね。時間というのは生存の基本的なわくですから、何をかいても時間の要素は関係してくる。ですから、どんなふうにかいてもかまわないのではないかと考えたのです。でもそうすると時間というものが見えてこない、時間というテーマがうまく浮かびあがってこないのです。時間そのものを浮かびあがらせるためには、どうすればいいかがよくわからないわけです。時間には2種類あって1つは何時何分という時間、時点と、もう1つはある時間の長さで、本来の時間というべき何分とか、1年とか、100年とかという長さですね。その2つの要素を混同して、われわれはなんとなく時間と言っているわけです。幼児にそういった2つの要素を教えるということになると、時計とかこよみということになってしまいます。それは、実際に生活していくうえで大切な問題だと思うけれど、時計の話とかこよみの話、四季の移り変わりの話になってくると、時間そのものではないように思います。時計の計り方や時間の考え方ということで、実用的ではあるけれども、時間というものの不思議さに目をむけるという方向にはいかないような気がしました。
編集部 太田さんは、最初に絵をお願いにあがって話をしたとき、どんなイメージをお持ちになりましたか。
太田 アメリカにはバートンの「生命の歴史」という、地球の誕生から生物の発生、進化から現代の生活までを扱かった本がありますが、ああいったものを自分でもかけるのかなと思いました。ですから、絵本をかいてほしいといわれたときにおもしろいと思ったのです。大昔からというか、地球の発生前から現在までだったので、実際にかきはじめるとかなりむずかしい点がありました。時間を具体的にだすということ、特に最後の方になって、時間がこきざみになってきたあたりから苦労しました。歴史的なもので1つ1つ押えていくのは簡単ですが、同じような状態の生活の中で時間の変化をだそうとすると、絵の場合すべてが具体的に表現されていなければならないので、苦労しました。
谷川 非常にむずかしいですね。
編集部 絵本全般についていえるのですが、特に谷川さんの絵本の場合、テーマを具体化していくためには、絵がとても重要なように思いますが。
谷川 そうですね。ぼくは文章をかくときに、絵を自分なりに頭の中にえがいてみるのです。絵本では、ことばだけでは表現できない世界を表現しようとしているわけですから、絵が表現力を持っていれば、ことばはできるだけ少なくて暗示的な方がいいと思っています。「とき」の場合も最初に「いつ?」とかいて、あとはかいてないわけです。「いつ?」だけでは無責任きわまるのだけれども、それは絵があって初めて「いつ?」というのが成り立つわけです。もちろん、絵と「いつ?」ということばを見て、何かを感じてくれる読者がいなければ、成りたたないわけですが絵本の世界では、いいたりないぐらいの文章と絵に触発されて、子どもとおかあさんの心の中にいろんなものが生まれてくることが、理想的だと思っています。
編集部 今度の絵本の場合、あまり具体的な時間というのははいっていないわけですけれども。
谷川 そうなんですね。文章は3回も4回もかき直しているので、初稿とずい分違ったものになりました。最初時間を子どもの現実生活の中で、意識できそうな瞬間をとらえて、それをクローズアップしてみようという意識が強かったのですが、それだと絵本として1本筋が通らなくなってしまうのです。詩があって、絵があって、見開きのページだというのならできるのだけれど、時間というテーマで何ページかのまとまった絵本にしようとすると、どうしてもまとまった感情がでてこなかったのです。
編集部 太田さんの方では、さきほど具体的な時間を表わすということで苦労なさったとおっしゃいましたが、そのへんをもう少しお話していただけますか。
太田 「とき」というテーマを昔から現在まで、一貫した同じパターンで伝える場合の技法として、スクラッチボードとカラートーンを併用したら多分うまくいくのではないかと思ったわけです。作っている間は半分以上楽しみでした。初めてやった技法ということもあったかどうか、結構調子もでたし、楽しかったですよ。
谷川 楽しかったと言っていただけるとホッとします。ぼくが一番びっくりしたのは、1つ1つの場面に対して漠然としたイメージはあったわけですが、どうしてもつかめなかったのが全体のスタイルの統一なのです。それがいったいどうなるのだろうと思っていたのですが、ああいう技法ですごくはっきり統一したスタイルがでてきて、それが大昔からちゃんばら時代みたいなものを経て、現代に至るまで見事に調和がとれているのにびっくりしました。
太田 どう統一をとろうかと3日ぐらい寝ないで考えたんです。
谷川 ぼくは、たとえば昔はラスコーの動物画、それから絵巻物になって、だんだん江戸時代の草紙みたいになって、現代は抽象でいくのかなんて考えていたので、それが見事に一蹴されて、本当にうれしかった。
太田 昔だからというので和紙に絵巻物風にかいていくと、現代になってきた場合に困るのではないかと思ったのです。
編集部 ギクシャクして、絵本としてのバランスがくずれてしまいますね。
子どもと時間
編集部 現在、時間というものは子どもにはどういうふうに意識されているのでしょうか。おそらく昔とは大分違うだろうと思います。私たちの子どものおkろは、テレビなんかなかったわけです。時間をあまり気にせず、朝がきたら幼稚園に行き、幼稚園で帰りなさいといわれたら帰ってくるし、遊んでいても日が暮れたら家へ帰るというように、自然の中の太陽の運行を基準にしたような生活をしていたわけですが、今の子どもは、6時半から始まるとか、7時から始まるとかいうように時間に敏感なようですね。
谷川 そういうふうにスケジュールみたいなものが、子どもなりにはっきりしていても、だからといって時間の観念が発達しているかというとそうでもない。そういうものは単に実用的で便宜的な区切りにすぎなくて、時間に対する感覚はあまり変わらないと思うんですね。ぼくの20才ぐらいのときの詩に、
3才
私に過去はなかった
5才
私の過去は昨日まで
7才
私の過去はちょんまげまで
11才
私の過去は恐竜まで
14才
私の過去は教科書通り
16才
私は過去の無限をこわごわみつめ
18才
私は時の何かを知らない
というのがあるのですが、過去というのはそういうふうに時間のイメージが延長されていくだろうと思うんです。絵本とか話に聞くとかいうことで、漠然と昔というものがあったんだということを知って、それがたとえばおさむらいのイメージになったり、ちゃんばらのイメージになったり、まだその前に何かがあったらしくて、そのころは人間は猿に似てたんだなとか、そういう漠然としたものがあるわけですね。漠然としたイメージはあっても時間の長さの感覚というのは、子どもとおとなではずい分違うだろうと思います。
編集部 そうですね。おとなと子どもとでは時間の感覚はずい分違うと思います。
時間の不思議さ
谷川 ぼくは、この『とき』の絵本で子どもに感じさせたいと思うことは、ある限定された時間ではなくて、いつだかわからないところから流れ始めて、いつかわからないところまで流れていくという、時間の永遠と呼べるかどうかわかりませんが、そういう時間の全体の中では人間は非常に小さな存在であって、時間というものをどうしてもとらえきれないということですね。たとえば、われわれの実感の経験からいうと、表紙でかいたのだけれど、夕焼けを眺めていても時間の不思議さみたいなものを感じることはよくあると思うんです。そういうときの時間の実体感というか、時間が他のものに媒介されないでフッと心に感じられるような形で、時間を感じさせたいと思ったのです。『とき』の場合、時間という抽象的なものよりも、やや歴史というものに近づいたような気がしたんだけれど。
編集部 それが、歴史でありながら自分の手前にくるに従って、きわめてこきざみになってきますね。あそこでは、時を感じざるをえないのではないでしょうか。
谷川 そうですね、それがねらいなわけです。
編集部 それと、それぞれの時間を表現している場面が、バラバラに存在するのではなくて、1つ1つ積み重なっていくのが、絵の中にとてもよくでているような気がするのです。
太田 スクラッチボードの墨の線でかいた人間や家の輪郭線を、大昔から現代まで同じ形でかいて、あとはカラートーンをうえからはったのですが、わりとうまくでたのではないかと思うんです。
編集部 絵本の場合、子どもたちに意識させたり、がく然とさせる瞬間を持たせることが必要だと思います。何かを教えてしまうのではなくて、子どもたちに考えさせれる、あるいは感じるチャンスを与えるとか、素材を提供することです。
谷川 自分の子ども時代をふりかえってもそうですね。まとまった知識として得たという感じはなくて、1枚の絵やちょっとしたことばの断片が印象に残っていたりして、意外にあとになって本を読んでいるときに、よみがえってくるということは確かにあると思います。
編集部 『とき』が、子どもたちに時間を意識させる1つのきっかけになってくれればという感じがします。
谷川 ぼくが子どもに言いたいのは、時間というものは共通の部分を持ちながらいろいろなとらえ方ができるものであるということです。つまり、時計を見ていると1時間は全部60分できちっと決まっているようだけれど、現実の時間の中では、そんなふうにこわばったものではなくて、伸びたりちぢんだりするということを、子どもに意識させたいという気持もありました。
編集部 『とき』の本は子どもだけでなく、おかあさんも一緒に楽しんでほしいと思いますね。
谷川 読んで楽しむということが、まずありますね。ぼくは時計とかこよみを重視せず、一種の主観的な「とき」のとらえ方をしているわけです。もしそういうものを感じてもらえたら、今度はおかあさんが子どもたちに客観的な知識として、『とき』の各ページの間の本当の時間の流れの違いをことばで伝えることですね。たとえば、おとうさんとおかあさんの結婚式はちょうとこのころだったんだよと結婚式の写真を見せてやるとか、もしあればおとうさんやおかあさんの子どものころの写真や、おじいちゃんが生きていたときの写真みたいなことに話がつながっていくような気がするんです。ですから、そういう意味でのきっかけはいろいろ作っておいたつもりです。
編集部 絵の方で、子どもたちに遊びとか生活がよくでていますね。
太田 ええ、子どもの生活というのが意識にありましたから。
編集部 日常生活の中で、時間というものにハッとするような感性的な時間がありますね。たとえば、もっと時間がたっているのにまだこのぐらいとか、もうこんなに時間がたったのかというようなことです。次には、こういう感性的な時間の絵本を作ってみたいですね。
谷川 ただ、そういうふうに感性的になってくると、逆にそれを絵本で与えてしまっていいのだろうかという気がします。本当は自分の現実生活の中でつかまえなければいけないのに、絵本がそこまで教えてすぎて先取りしたために、その世界を見なくなったら大変だという気も少しするんです。ただ、ぼくはもう一ぺん時間に挑戦してみたいですね。もっと別な形で。
編集部 どうぞお願いします。座談会はこれで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
2023.04.29