不思議な先生|『ふしぎなえ』安野光雅 絵
作家の小風さちさんが、絵本作家たちとのエピソードをまじえながら綴った、絵本の魅力をじっくり味わえるエッセイ。第1回は、安野光雅さんの『ふしぎなえ』です。
不思議な先生
『ふしぎなえ』 安野光雅 絵
小学3年生の春、不思議な先生と出会った。
私の通った小学校では、2年生までは一人の先生から全ての科目を教わるのだが、3年生になると教科ごとに違う先生がついた。図画工作に、見たことのない先生がやってきた。
『あんの みつまさ』先生です」
受け持ちの先生がおっしゃった。
新しい先生は、当時の大人にしては髪の丈がすこし長めだった。前髪に波形の癖もあった。私はそういう髪の男の人を見るのは初めてだったので、とても珍しくおもった。
珍しくおもったことは、もう一つある。子どもの視線から見ると、先生が笑うときは優しく目尻を下げるか、空を仰ぐような角度で笑っているように見える。だがその先生は違った。その新しい図画工作の先生は、笑いながらじっと見るのである。こちら、つまり私たち子どもをじっと見ながら笑うのである。その声は、もしも手品師が、自分で仕掛けたカラクリに堪えきれず笑ったら、こんな感じかと思われる節があった。
安野先生の授業は楽しいこともあったが、私には少し難しいときもあった。楽器を演奏している音楽家を、紙で立体に作るのは楽しかった。私は奏者の髪を鉛筆で巻き、モーツァルトのように仕立てた。画用紙で箱を作り、その箱の中に箱、その中にまた箱…というのも、なんとかついてゆけた。だが、実際に逆さまに写るというカメラを厚紙で作ったときは、チンプンカンプンだった。案の定、私のカメラの出来はかんばしくなく、校庭に出てあちらこちら写している安野先生が"さかさま"に夢中なことだけはよくわかった。
ある晩、度肝をぬくようなことが起きた。家に安野先生が来られたのだ。私は仰天し、2階に駆け上がった。いったい私の図工の成績は、そんなに悪いものなのか? だが階下からは、父と先生の和やかな声が聞こえてくる。いったい父は、いつあの手品師と友達になったのか。当時父は「こどものとも」を編集しており、時折風変わりなお客があったが、学校の先生が来られたのには参った。
安野先生はなぜかその学年末には学校を辞められ、私は4年生になった。図工の先生も変わった。だが玄関にフォルクスワーゲンが駐まっていると、安野先生である。
ある晩、先生が大きな茶色の包みを抱えて来られた。私はもう2階へ駆け上がらなくなっていたし、その晩は父もなんだか待ちわびた様子だった。先生はソファに座る間もなく、包みを解いた。『ふしぎなえ』の原画だ。私にとって、生まれて初めて見る絵本の原画だった。なんとも摩訶不思議な絵なものだから、一枚ずつ見ていたのが、そのうち絨毯の上に広げる形になった。平面のはずのレンガの壁を階段のように登る小人。登っても登っても元のフロアに戻ってしまう階段。あれ? へんだ…と首をかしげ、二人の兄たちと不思議な箇所をひとつひとつ指さし確認し合った。いったいいくつトリックが隠されているのか、鵜の目鷹の目で眺め入る。疑心暗鬼で手品師を垣間見ると、じっとこちらを観ているし、しまいに絵の中の小人たちが他人事に思えなくなって、「あぁ、あぁ、可哀想に」とタメ息をついたり、なんとかこの絵から出る方法はないかと本気で思案したものだ。
かつて小学校の教室に入って来られた先生は、それから本当に、手品のように数々の本を造られた。3年ほど前、私は津和野にある先生の美術館を訪ねた。展示棟には絵本の原画。さらに進むと、妙なことに小学校の教室に紛れ込んでしまった。黒板に学童机。壁にかかった習字の筆跡は様々で、朱筆までいちいち入っている。美術館に古い教室? しかもこの念の入り様は、一人の人物の仕業としか思えない。気をつけろ! と脳が言う。この手のトリックにはまったら最後、小人にされてしまうぞ。だが箱の中の箱や、逆さまに写るカメラ、はたまた手品師の笑い声まで甦ってきて、私の頭はますます渾沌とするのだった。
小風さち(こかぜ・さち)
1955年東京に生まれる。1977年から87年まで、イギリスのロンドン郊外に暮らした。『わにわにのおふろ』などの「わにわに」シリーズ、『とべ!ちいさいプロペラき』『あむ』『ぶーぶーぶー』『はしれ、きかんしゃ ちからあし』『おじいちゃんのSLアルバム』など多数の絵本、童話作品を手がける。
2017.05.29