【第2回】堀内誠一さん|(2)絵本の無限の可能性
見えないものを見せる
長谷川 「童画からイラストレーションへ」(「日本児童文学」別冊〈絵本〉1974年)という堀内さんの文章の中に、子どもの絵本の絵というのは、その物語の世界をどこまで深く体験させるか、という仕事だというようなことが書かれていて、絵本の絵の意味というのがよくわかったような気がしたんですが。
堀内 例えば民話やファンタジーにさし絵なんかいらない、ということも言えるけど、それに挑戦したいというところもあるんですね。手を動かしているうちに、現われてきたイメージに我ながら惹かれるってことがあるから。
長谷川 絵本の役割の一つは、現実では決して見えないものを見せてくれることにあるかもしれませんね。例えば堀内さんの絵本は宇宙といったものをぐっと引きよせて子どもたちに見せてくれる。『でてきておひさま』(品切れ)の太陽や『てんのくぎをうちにいったはりっこ』(品切れ)の天と地など……。私は時々ブレークの絵なんかとも思い合わせてしまうんですが、そういう、絵をしっかり見てしまう体験は、きっと宇宙や大自然のことをまるごと考え続けてきた人間の思想の営みと繋がっていくような気がして。
堀内 すべての子どもが毎日昇る太陽の奇跡っていうのを、どれだけ体験し、また呼び起こせるかっていうのは疑問ですものね。
アイルランドの昔話にね、こんな話がある。ある職人の家に、ロバがやってきて、毎晩家事をしては帰っていく。家の者は、自分の仕事に精出せるし、だんだん金持ちになっていって、喜んで、お礼にチョッキを作ってやる。するとロバは、「じゃさようなら」って、いつもする仕事もしないで出ていく。何か忘れてやしませんかと尋ねると、実は魔法でロバの姿にさせられてて、何かいいことをしてお礼をもらったら元の姿に戻るという魔法だったので失礼しますとか言って、行ってしまう。
この話なんか、絵本にしなくても、面白い部分っていうのはわかるかもしれない。ただその時に、この話の一種の教訓というか、意味的なことだけ覚えちゃう理屈屋の子どもが出てきちゃうんじゃないかとも思うんです。話し方がうんとうまかったら情景は目に浮かんでくるでしょうが、助けとしてここに絵があれば、たんに諺みたいなものが残っちゃうだけでなくて、もっと豊かなものが伝えられるかもしれないと思うんですよね。家人のロバに対する気持ちの変化とか、全体を包んでいる世界を描くことで、この話から受けとるものがもっと膨らむと。
長谷川 子どもはそういうものを要求しているような気がします。よく、絵本や昔話の挿し絵なんかで、この顔がよく見えないっていうのにすごく苛立ったりするんですよね。例えば今のお話でお皿を洗っているロバの背中なんかを絵で見ることができたら、ほんとに心に焼きつくものがあるでしょうね。
堀内 そうするとね、大人になってからも、動物園である種の動物を見ると、前は人間だったのが、バチが当たってこういう姿にされたんじゃないかと考えたりできるわけよね。(笑)なんか、そういうの、ファンタジーだと思うのね。観察能力と空想力を持てる。
長谷川 たしかに、子どもって抽象的なものでもどんどん具体化して食べちゃうところがあって、とにかく見える形で納得したいんですね。その能力がファンタジーのもとなのかもしれないけど……。子どもに万有引力の説明をしたら「地球の手ってものすごい手だろうなあ」っていうんです。そういう子ども独得の能力と絵本が手を結んで子どもの体験を決定的に深めていくような気がします。イメージでぴたっとわかるとなにしろ喜んじゃう。『ふくろにいれられたおとこのこ』(品切れ)で鬼がかついでいる袋がちゃんと男の子の身体の形になっている。そんなのが子どもにはうれしくてしょうがないみたいですよ。
何を見せるか
堀内 そのシーンなんかも、いろんなやり方があるわけでしょう?それなんか、袋の中のまっ暗な画面に、ピトシャンがいる、というようなやり方もありますね。宮沢賢治の「山男の四月」の中に出てくるのは、袋の中に入れられちゃった山男が、動きが止まったから今休んでるのかな、と袋の中で考えたりするし、ショヴォーの「ニワトリとメンドリ」では、かごの中のニワトリとメンドリがチーズがあるのを見つけて、「なんだこのくさいものは?」とか言ってかじってみるとおいしかったものだから、「このくさいものをなくそう」とぜんぶ食べてしまう。でも袋の目方は変わらないので女は気がつきませんでした、なんてね。
このピトシャンピトジョの話は一人称で書かれてはいないけれど、絵でそれを示してもいいんです。ただうんと小さい子っていうのは、想像力は無限にあるくせして、自分の持っている体験の数っていうのは極度に少ないわけですね。だからもしかしたら、あのシーンを視覚的にムリしてまで一人称表現しても伝わらないかもしれない……と、一つの話ん中で、ぼくはほんとうに三つも四つも考えちゃうんですよ。だからいつもその一部しか使っていない、これが一番いいのかっていう危惧がある。一つの話から無限の可能性があるわけですね。
長谷川 でも、堀内さんの絵本を見ていると、子どもが一番感情移入しやすいところにピッと入って絵ができているような感じがいつもします。
堀内 文章を読んだ時にまずパッと浮かんだものをすぐ描いて、それがプロットとしてほとんど変わらなくなっちゃう場合が多いですね。幼稚なのかな。いろいろ考えが出てくるのはそのあとなんですけれどね。
だから、いい絵本はこういう絵本だというふうにつきつめていくと、純粋な絵本の姿っていうよりは、無限の可能性のひとつを今の自分の気持ちが選ぶんだってこともわかってくるんですよね。瀬田さんの『絵本論』読んでも、いい絵本はこういうもんだと取り出されているというより、ぼくは絵本の無限の可能性を感じて、その意味であの本はひじょうに貴重なものだと思いますね。
とにかく、絵本の絵っていうのは、たんに事物を示すだけじゃない。それだけじゃ絵でもないって言えますね。テキストをいかに味わったかを伝えて、結局のところ子どもの魂を引き上げるってことができなきゃね。それは双方の喜びでもあるけれども。そのことが、絵をつけることでお話を二倍でも三倍でも面白くするっていう意味ですよね。
長谷川 絵本を子どもによんでやるのも同じ喜びのような気がします。子どもの心の動きが見えると、なんかこっちも気持ちが引き上げられるという感じが楽しいんですね。
堀内 子どもの持ってる能力っていうかね、そういうものを知るってことは大人の喜びですよね。人間の、この世に生まれた意味とかが、子どもの中にあるのを見て、こっちがそれをありがたがるというか。絵本のアイディアというのは、大人よりも子どもの方が、ずっとたくさん提供しているんじゃないかと思いますよ。
2017.04.02